次に紹介するドスケベ皇帝ですが、北宋2代目皇帝の太宗こと趙匡義です。
えっと思う人もいるかもしれません。
この太宗である趙匡義。太祖である兄の趙匡胤の後を継ぎ、中国全土を統一して宋朝を盤石なものにした名君のイメージですよね。
実は、趙匡義は好色皇帝として、昔から中国では有名みたいなんです。
979年に北漢を滅ぼした時には、後宮の妃や宮女をそっくり自分の後宮に入れています。
これだけでもドスケベとしては十分なエピソードですが、いつの時代のでも程度の差はあれ、スケベな君主ならしてそうなことですよね。
太宗はある一つのフェチな趣味が災いして、後世にドスケベというよりも変態皇帝として延々と語り継がれてしまうことになってしまったのです。
宋の太宗は寝取りがお好き?
趙匡胤の後を継ぎ、皇帝に即位した太宗趙匡義は、975年に江南地方で最大勢力であった後唐の首都であった金陵(現在の南京)を攻め落とし、後唐を滅ぼしました。
その際に、文人皇帝として有名だった、後唐の李煜とその一族をまとめて北宋の首都である開封に連行し、李煜を「違命候」に封じて終生、軟禁状態にしてしまいました。
さて、この李煜には小周后という、最愛の皇后がいました。
彼女は、若い時から姉の大周后(この時には既に故人)とともに美人姉妹として有名な存在で、皇帝時代の李煜はこの姉妹を寵愛していました。
ところが、後唐が滅亡して李煜と共に開封に連行されると、その美貌に太宗がぞっこん惚れ込んでしまいます。
しかし、軟禁状態とはいえ李煜は生きてますし、離別させて妾になどできません。
そこで太宗は、小周后が外命婦(位の高い貴人の妻)として宮中に参内した機会を見計らって身体を奪ってしまったのです。
まず小周后を小部屋に誘い、酒を勧める。
無理やり?飲まされて酔いが回った彼女を、強引に組み敷く。
小周后も抵抗するも、彼女のか弱く細い手では、武人でもある太宗の力には適わず。
また、宮女を恫喝して、小周后の身動きを封じた後に行為に及ぶ。
※なんでこの描写だけやたらと細かく残っているのかはわかりません笑
おそらく、ここは後世の人が面白可笑しく脚色したと思われます。
小周后はこうして一度参内すると何日も辱めを受け続け、帰宅することはできませんでした。
夫である李煜のも何日も家に妻が戻ってはこないので気が気ではなかったでしょう。
しかし、所詮は敗残国の君主として虜囚の身。どうすることもできませんでした。
行為のシーンを絵に描かせる
このようにして、無理やり他人の妻を寝取った太宗でしたが、正直これだけなら普通でした。
というのも、権力者が滅ぼした国の君主の妻や妾を奪うことは歴史上よくあることです。
ですが、この太宗。通常の性行為では刺激が足りないと思い始めました。
そして、なんと自分と小周后の行為中のシーンを宮中画家に銘じて絵にさせたのです。
これが、後世に衝撃的な絵として伝わる「熙陵幸小周后圖」です。
あまり生々しいのでさらっと書きますが、絵に描かれている内容は、「帽子だけ被った素っ裸の色黒で太った太宗が、両手両足を宮女に固定されて身動きができない小周后に一物を入れている」というかなりハードなシーンです。
小周后は、あまりの恥ずかしさに耐えられず、宮中を出る時はいつも泣き崩れ、その悲しむ声は宮中に響き渡り、あまりの光景に人々は見て見ぬふりをするしかなかったようです。
やっと帰宅できても、夫である李煜を罵倒しては寝込んでしまう日が続いたようです。
それにしても、人妻の寝取りシーンを絵に残して興奮する太宗ってドSというか、かなり変態ですよね。
よほど、美人で名高い女性をものにしてやったという支配欲が強かったのか・・・。
ちなみに、この「熙陵幸小周后圖」の実物は遺失してますが、後世の多くの物好き画家が似たような絵を描いています。
▽やらしいので、苦手な人は開かずにスルーしてください。
まとめ
歴史上、好色な皇帝はたくさんいますが、行為を宮廷お抱え絵師に描かせたのはこの宋の太宗だけでしょう。
名君だからといって、品行方正とは限らないものなんですね。
コメント