中国暴君列伝③ 酒浸りのイカれた皇帝~北斉の文宣帝2〜

魏晋南北朝

北斉 文宣帝の残虐エピソード第二弾。

あまりにも多すぎるので、二つの記事にしています。

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中国暴君列伝③ 酒浸りのイカれた皇帝~北斉の文宣帝〜

老母を虐待して後悔

文宣帝の母の窶昭君も、息子の酒乱っぷりを苦々しく思っていた。

実母である窶昭君が酒浸りの文宣帝を叱ったところ、泥酔していた文宣帝は「この婆ぁ!胡(蛮族)に嫁がせちまうぞ!」と暴言を吐き、母親をベットごと持ち上げ、ぶん投げて怪我をさせた。

その後、酔いが冷めた文宣帝はがく然とし、草を焚かせて火の中に飛び込もうとした。

さすがに母親が必死に止めたため、お気に入りの家臣に「母上に怪我をさせた罪深い私を鞭打て!出血するくらい強く打たなければお前を殺す!」と脅迫して、むりやり鞭で背中を打たせた。

▽鞭

※鞭とは金属製の鉄棒のことであり、これで打たれるとメチャクチャ痛いらしい。
中国では刑罰で鞭打ち100回とかよく行われていたが、あまりの激痛に死ぬ者もいたようだ。
ちなみに日本人がイメージする鞭は軟鞭といって、全くの別物。

弟二人を鉄籠に閉じ込めて焼き殺す

文宣帝の弟の高浚と高渙は、明るく才気煥発であり、対照的な性格の文宣帝とは仲が悪かった。
二人は文宣帝の酒乱や宮中の女性との乱交を諌めたため、文宣帝の心情を逆なでさせることも多かった。

文宣帝は、正論を吐き、民衆からの信望もある彼ら二人を生かしていたら、いつか自分に対して反逆するのではないかと思い込み、二人を鉄の籠に閉じ込めて地下牢にブチ込んだ。

ある日、文宣帝が彼らの様子を見ようと歌を歌いながら地下牢に下りてきたことがあった。
文宣帝は鉄籠に閉じ込められたままの高浚と高渙にも歌うように命令したが、二人は恐怖と悲しみで声が上ずり、とても歌うどころではない。

鉄籠の中で身動きが取れずに大小便をまき散らしながら嘆く二人をみて、文宣帝も哀れに思ったのか一度は釈放を考えたという。

しかし、信頼していたもう一人の弟である高湛(のちの武成帝)が「この者たちは虎です。虎を檻から出すべきではありません」と注意したため、文宣帝は釈放を撤回。
高浚と高渙を殺すよう近習に指示した。

鉄籠の隙間から二人を何本もの剣でメッタ刺しにし、痛みのあまり絶叫する二人にとどめのたいまつを投げ込んで焼き殺してしまった。

掘り出された遺体は消し炭のようで髪もなくなっており、高浚と高渙を慕う人々は心を痛めたという。

夫の死を悲しむ妻を斬り殺す

文宣帝の腹心であった崔暹が病死すると、文宣帝は大いに悲しんだ。
そして、悲しさを紛らわすために酒の量もますます増え、この時期には文宣帝は正常な判断さえできなくなるほど廃人状態となっていた。

ある日、宮殿に参内した崔暹の妻に、「夫のことを今でも思い出すことがあるか?」と尋ねたところ、妻は「どうして夫のことを忘れることができましょうか」と至極当たり前の返事をした。

しかし文宣帝はこの時すでに精神が錯乱していたのか、「ならば夫のもとに行けばいい」と言って、自ら剣で妻を斬り殺してしまったという。

囚人たちに崖からダイブさせる

長年にわたる酒浸りの生活で気持ちが荒み、普通の殺人では物足りなくなっていた文宣帝は殺人の一環として、新たな方法を思いついた。

囚人たちに細い竹で編んだ蓆を渡し、翼代わりにして崖から飛び降りろと命令したのである。

「この蓆を使ってこの高台から飛び降りろ。飛ばなければ殺す。もし運良く飛んで着地できた者は、朕が責任をもって面倒をみてやる」

そうは言っても、蓆ごときで空を飛べるはずがない。
殆どの囚人がヤケクソになり高台からダイブしては墜落死するのを文宣帝は酒を飲みながら大笑いして観賞していたという。

しかし、ただ一人元黄頭という囚人が運良く着地することができた。

生きながられることができる!

そう元黄頭が安堵したのも束の間、文宣帝は生き残った彼を地下牢にブチ込み、食事も与えずに餓死させてしまった。

面倒をみてやるとは言ったものの、食べ物を与えるとは言っていない。
文宣帝はただ酒を飲みながら、囚人が死ぬ姿を観たかっただけなのであった。

酒乱皇帝の最後

主なエピソードを時系列ごとに挙げてみました。
酒浸りの影響か、歳を追うごとに残虐な行為をしているような気がします。
が、ここに書ききれないネタが本当はまだたくさんあるんですよこの皇帝。

※多すぎるので割愛。

おそらくアルコール中毒による、神経虚弱と精神錯乱が残虐行為に拍車をかけたと思われます。

こんな生活を続けていた文宣帝も自分の身体がもたないことを悟っていたのでしょう。

ある日、占い師に「朕はあと何年生きられると思うか?」と尋ねましたが、占い師は恐怖のあまり「90年はご存命になります」などとデタラメなことを言いました。
さすがに文宣帝も嘘であることを見抜き、「あと10年くらいだろうな」と言ったようです。

そして、わずか在位9年にして、文宣帝は死の床に就くことになります。

彼には後継ぎとして14歳になる皇太子の高殷がいましたが、まだ若年だったため、弟の高演に補佐を頼みました。

しかし、文宣帝は高演の野心を見抜いていたのでしょう。高演に対して、
「もしお前が簒奪するなら仕方がない。しかし、息子の高殷は殺さないでやってくれ」
と必死のお願いをした後、559年にこの世を去りました。

ちなみに文宣帝の葬儀では重臣の一人を除き、誰も泣いて悲しむものはいなかったといいます。
恐怖と暴力で支配する暴君が死んで、家臣たちは内心喜んでいたのでしょう。

酒浸りで殺人を繰り返した皇帝の哀れな最期でした。

文宣帝が死んだその後は?

文宣帝の死後、皇太子の高殷が北斉の第2代皇帝として即位します。

しかし、文宣帝の予想どおり野心家である弟の高演が簒奪を決意。
すぐに高殷を廃位させ、自らが第3代孝昭帝として即位しました。
強制的に廃位させられた高殷は、文宣帝の願いもむなしく、孝昭帝によって暗殺されています。

その孝昭帝も在位1年で事故死。
この孝昭帝も、もう一人の弟である高湛に対して、
「お前に帝位に譲るが、息子の高百年だけは殺さないでくれ」
と遺言するも、第4代武成帝として即位した高湛は孝昭帝の願いをガン無視。
邪魔な高百年を殺してしまいました。

身内殺しの連鎖が止まらない北斉は、急速に弱体化し、文宣帝の死後わずか18年で滅亡します。

武成帝もその後の後主も、北斉の皇帝は暴君続きでしたが、文宣帝が突出して残忍な皇帝であったと歴史書でも書かれています。

まとめ

あまりに鬼畜過ぎるエピソードばかりですが、文宣帝の暴君的な所業はあくまで宮中や家臣の範囲に限られたため、民衆の暮らしは意外にも豊かだったようです。

暴君であっても暗君ではなかったんでしょうね。

そういう意味では、民衆にも危害を加えた前趙の石虎のほうが真の暴君だったと言えるかもしれません。

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