南北朝時代は皇族の殺し合いがやたらと多かった時代です。
北斉時代は特にひどく、実は開祖の高歓以外に40歳以上生きた皇族は1人もいません。
※北周に降伏した一人を除く。
今日紹介する文宣帝も親戚兄弟に容赦がなかった皇帝の一人ですが、彼は酒に酔うと衝動的に人殺しを行う癖のある極めて危険な暴君でした。
絡まった糸は解かなくていい。ぶった切り解決!
文宣帝の本名は高洋といい、東魏(北斉の前身)の実力者である高歓の次男として生まれました。
高歓には15人もの男子がいましたが、その中でも無口でおとなしい性格の高洋は、けっして目立つ方ではなかったようです。
色黒で容姿も醜く、兄弟たちにからかわれましたが、父の高歓は高洋の才能を見抜いていました。
こんなエピソードがあります。
高歓が息子たちに絡まった糸を渡し、「この糸を解いてみよ」と言いました。
他の兄弟がなかなか解けずに苦労しているのを尻目に、高洋は突然、「絡まった糸は切ればいいだろ」とつぶやき、刀で真っ二つにしてしまいました。
全く解答になっていません。
しかし高洋の異様な雰囲気に、高歓もただならぬものを感じ取ったのでしょう。
その場を笑ってやり過ごしました。
このエピソードから「快刀乱麻を断つ」という言葉が生まれています。
イライラすると思考を停止して、暴力で解決しようとする。
そんな危険な雰囲気を少年のころからプンプン醸し出していたのです。
即位当初は名君?
547年に高歓は死亡し、嫡男である高澄が父のあとを継ぎました。
高澄は名ばかりの東魏の皇帝から禅譲を受ける手続きを進めますが、不運にも549年に奴隷の蘭京(南朝粱出身の捕虜だが、帰国を認められずに高澄によって料理人の奴隷とされていた)によって刺殺されてしまいます。
兄の訃報を知った高洋はいち早く軍を率いて駆け付け、蘭京を討ち取ることに成功。
その後、高家の首領として地盤を固めた高洋は、550年に東魏の孝静帝から禅譲されて文宣帝として即位し、北斉を建国しました。
▽当時の周辺地図
即位当初の文宣帝は積極的な外征を行い、柔然・突厥・高句麗などに全勝。
北斉の最大版図を築きあげています。
「戦場では矢雨が降る最前線にもかかわらず皇帝自らが剣を振るい戦った。血気にはやるあまり敵軍の数が少ないことに不満をもらすこともあったが、この武人皇帝の猛烈な姿勢が北斉の常勝軍団を作った・・・」
正史である北斉書でもこう書かれるほど、文宣帝の武力・統率力は抜きんでていました。
さらに、無駄遣いを抑えて人件費を減らしたり農業や鉄鋼業の保護をしたので、北斉を周辺諸国よりも豊かな国とすることにも成功。
文宣帝時代は、西側の北周を圧倒していたのです。
このように即位した当初の文宣帝は統治に励み、名君ともいえる素質をもっていました。
しかし、即位後数年もたつと政治に飽きてきたのか酒と女にハマっていきます。
このあたりから、文宣帝の本領発揮。
いよいよ暴君としての残虐エピソードが乱発されていきます。
あまりに多すぎ重すぎな内容なので、淡々と書いていきますね。
宮中の貴婦人と集団乱交
文宣帝は、極度の酒浸りで(アルコール中毒だったとも言う)酔うと節度を越えて淫らな行為をしたり異常行動をすることが増えていった。
泥酔しては、胡服を着て奇声をあげて夜明けまで踊り狂ったり、真夏の炎天下にで歩き回ったり真冬の極寒の日に裸で出歩いたりした。
また大勢の宮女と近習に目の前で乱交させ、それを観ながら酒を飲むのが大好きだった。
東魏時代の皇后や側室を自分の妾にするだけでなく、家臣の妻も寝取ったりしたため、屈辱のあまり自死する者も多かったという。
殺人鑑賞が大好き
文宣帝は、いつも鋸(ノコギリ)や鉄槌(ハンマー)などの道具を身近に用意していた。
酒を飲んで興奮度がMAXになると、手当たり次第に近習を殺して死体をバラバラにして宮殿の外に投げ捨てたり、大鍋で死体を煮込む様などを観て酒飲みの余興としていた。
たまたま人を殺せなかった日があるときなどは非常に不機嫌になったので、あわてた家臣たちは、鉄製の檻を特注で作り、死刑囚をなかにブチ込んで皇帝の側に用意させた。
酒を飲んで人殺しをしたくなった文宣帝のために死刑囚をプレゼントしたのである。
この文宣帝の殺人趣味を三か月間生き抜いた死刑囚は、奇跡の人ということで特例で釈放されたという。
昔、自分をイジメた者を100発以上殴り殺す
高洋(文宣帝)がまだ即位する前、高隆之という東魏の武将は根暗で陰湿な高洋のことをいつも馬鹿にして見下していた。
高洋もそんな高隆之を憎み、即位した後も忘れず、ずっと恨んでいた。
ある日、高隆之が東魏の皇族と飲んでいたことをに文宣帝に密告した者がいた。
ちょうど東魏の皇族を一網打尽に殺そうと計画していた文宣帝は怒り、この期に高隆之に恨みを晴らしてやろうと決意。
何も知らない高隆之を宮殿に呼び寄せ、屈強な男たちに高隆之を羽交い締めにさせた。
そして100発以上高隆之に拳骨を食らわせ、意識をなくした高隆之(おそらく頭部内出血と思われる)を宮殿の外に放置。
そのまま高隆之を野垂れ死にさせた。
その後も、イライラが収まらなかった文宣帝は、高隆之の息子を含めた家族全員も皆殺しにしてやっと落ち着きを取り戻すことができたという。
言いがかりをつけて、東魏の皇族を皆殺し
文宣帝は東魏の孝静帝から禅譲を受けた後も、帝位を奪った自分に対していつか東魏の皇族が反乱が起こすのではないかと気をもんでいた。
ある日、東魏の皇族出身でありながら、自分の姉を嫁がせるほどのお気に入りであった元韶という者に、「前漢が王莽によって滅ぼされた後、後漢が復興したのは何故だと思う?」と尋ねたことがあった。
元韶は「漢の皇族を滅ぼし尽くさなかったことが原因でしょう」と回答した。
元韶としては歴史の事実を述べただけであったが、この言葉を聞いた文宣帝は、やはり東魏の皇族は反乱を起こす恐れがあると早とちりし、皇族の根絶を決意。
元韶を含めた721人の魏の皇族すべてを皆殺しにしてしまった。
中には赤ん坊もいたが、ただ殺すのではなく、空中に放り投げて落ちてくる所を槍で刺し殺すといったむごい殺し方をしている。
殺した死体は細かく切り刻み、バラバラ死体を漳水という川に投げ込んだ。
近隣の漁民が漳水で採った魚を捌いたところ、人間の指など死体損壊部分が次々に腹から出てきたため、住民はしばらく魚を食べれなかったという。
愛妾を斬り殺し、遺骨で琵琶をつくる
文宣帝には薛嬪という寵姫がいた。
しかし、彼女の姉が実父のために高い官職をねだっていることを知った文宣帝は「思い上がった雌豚が何様だ!」と激怒。薛嬪の姉を鋸引きという残酷な刑で殺した。
▽鋸引きの刑
その後も怒りが抑えられなかった文宣帝は、薛嬪を疑い始めた。
皇族の一人である高岳と薛姉妹が昔から仲が良かったことを思い出した文宣帝は、高岳と薛嬪がひそかに密通していると思い込み、今度は薛嬪も斬り殺し、死体をバラバラにしてしまった。
その後、処刑したことを後悔した文宣帝は、薛嬪の切断した血まみれの首を抱えて髪を振り乱し、大声で泣きわめきながら裸足で宮殿中を駆け回った。
その狂気じみた姿をみた家臣たちは皆、戦慄したという。
その後も悲しみの癒えない文宣帝は、薛嬪の死体から骨を抜き取り、骨の琵琶を作らせて自ら演奏しては彼女のことを思い哀しんだ。
酒浸りを注意した家臣を怒りに任せて刺殺
文宣帝の酒狂いは年を追うごとに悪化していった。
家臣にささいなミスや悪い噂があると、よく調べずに死刑を命じることも多くなり、冤罪で殺された家臣も多かった。
そんな中、高徳正という者が文宣帝の酒浸りを厳しく注意したことがあった。
※高徳正は、即位前の高洋が東魏の皇帝から禅譲を受けるべきか真っ先に相談するほど信頼されていた懐刀ともいうべき重臣であった。
しかし、酒飲みと人殺しが何よりも大好きであった文宣帝は聴く耳なし。
むしろうるさい高徳正を煙たがるようになっていった。
文宣帝の機嫌が悪くなると、どんなお気に入りの家臣でも簡単に殺される様をよく見てきた高徳正は、自分も殺される危険を感じ、病と称して出仕しなくなった。
そこで文宣帝は一計をたてる。
地方官に任じるという命令を出して高徳正を宮殿に呼び寄せたのだ。
皇帝の側から離れられると思い、喜んで宮殿に参内した高徳正をみて、文宣帝は彼の病が嘘であることを看破。
怒りを抑えきれずに自ら刀で高徳正の腹部を刺した。
お抱えの殺し屋に高徳正の足の指を三本切り落とさせ、激痛にうずくまる高徳正を宮殿の外に投げ出して放置、高徳正を死亡させた。
文宣帝は怒りを抑えることができずに、高徳正の屋敷に乗り込み、残った妻子を自ら斬り殺したという。
あまりに残虐エピソードが多いので、記事を二つに分けました。
▽第二弾はこちら
中国暴君列伝③ 酒浸りのイカれた皇帝~北斉の文宣帝2〜
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