漢の最盛期を築いたといわれる武帝。
教科書では、名君として紹介されることが多いですよね。
もちろん、漢の領土を最大にしたり、郷挙里選という地方の有能な人材を獲得する方法を制定したり良いこともありました。
しかし、実は武帝は暴君ともいうべき、パワハラで有名な皇帝でした。
こんな感じで、現代だったら最悪のパワハラ上司って感じです。
では、どこらへんが具体的にパワハラに該当するのかチェックしていきます。
やる気がある
武帝は怠けたり、女ばかりにうつつを抜かすいわゆる暗君ではありません。
在位当初から積極的に政治に関与して、自ら行動しました。
▽武帝(中国ドラマ『大漢武帝』より)
その代表例が、北方や西域への領土拡大と、郷挙里選です。
武帝は、文景の治と言われた先代以前の統治政策(対外は保守的で、国内の安定を優先)をやめて、積極的に戦争をして領土拡大をする方針に変更しました。
衛青、霍去病など優秀な武将を遠征させ、匈奴や大苑などの北方・西域民族に何度も戦で勝利して漢の最大領土を得ることができました。
▽衛青
▽霍去病
また、建国以来の功臣たちの子孫によって官職が独占されがちだった状況を打破するために、能力のある人材を地方が推挙させ、積極的に登用するという郷挙里選という仕組みも導入。
武帝の治世は優秀な官吏や武将が多く輩出しています。
このため、一般的には漢の威信を高め最盛期を築いた名君と言われているのです。
無理難題を武将に押し付け、ミスや失敗には厳しい。
しかし、武帝には最大の欠点がありました。
それは、臣下がミスをしても許すという度量が全くなかったこと。
それは対外的な匈奴や大苑との戦でモロにでます。
衛青や霍去病は抜群の戦功を挙げたため名将として有名ですよね。
しかし、その他の多くの武将は武帝の無理難題を押し付けられ、悲運の末路をたどっています。
李広
キングダムの主人公である李信の子孫である李広は、文帝・景帝の時代から匈奴相手に勇戦し、彼ら敵側から「飛将軍」と呼ばれ恐れられるほどの猛将でした。
しかし、武帝は彼の実力を正しく評価せず、戦に不慣れな武将との共闘作戦にばかり従事させた結果、作戦の失敗が続き、李広は負け戦がつづき敗将として、処罰を受けることが増えていきました。
挙句の果てには戦に間に合わなかったことを恥じて自殺に追い込まれています。
李陵
李信の孫である李陵も、勇猛で将来を期待された猛将でした。
李陵は、5千の歩兵で8万の匈奴軍と相手に獅子奮迅の働きをして1万以上の敵兵を打ち取る活躍をしますが、援軍が来なかったこともあって全滅し、自身も捕虜となってしまいました。
ミスを許さない武帝は怒りました。
また、匈奴の捕虜から「李将軍」という者が漢の軍略を匈奴に教えているという噂を聞くと、短気な武帝は大激怒。
「李将軍」が誰のことを指しているのかよく調べもせずに李陵の一族を皆殺しにします。
※実際には、李緒という先に匈奴に帰順した別人のことでした。
李陵は絶望して匈奴に帰順することになり、二度と漢に戻ることはできませんでした。
公孫敖
公孫敖は武帝の寵姫である衛夫人の弟である衛青を助けたことで重用された者です。
主に匈奴の討伐軍を率いる大将として戦うことが多い武将でした。
彼は、お世辞にも戦が上手だったとは言えず、何度も匈奴との戦いに負け続けています。
※李広の負け戦も公孫敖の作戦失敗によるところが大きいです。
そのたびに戦犯として死罪になるところを、金で罪を贖って免れていました。
ある時、1万騎を率いて匈奴征伐に単身出撃するも、大敗北を喫したために死罪となりましたが、なんとか脱出して民間に隠れることに成功しました。
しかし、数年後に捕まってしまい武帝の命令で一族皆殺しとなってしまいました。
このように、部下の適材適所を考えずに無理やり匈奴征伐に行かせては敗北すると、重罰を与えるということを繰り返しています。
自分が任命したという事実を一切棚に上げて、勝てて当たり前。負ければ容赦をしないというスタンスはパワハラそのものです。
自分の意に従う臣下ばかり可愛がる
前述のとおり、武帝はやる気はありました。
しかし、対外的な戦争ばかりやる気を出して、国内政策はおろそかにしていました。
もちろん、戦争ばかりしていれば莫大な軍事費が必要となり、財政も悪化します。
そこで塩や鉄を国の専売制にしたり、重税をかけたため民衆の暮らしは悪化。
また、徴兵を嫌がり逃亡する兵士や、重税に耐えきれずに逃亡する流民が賊になったことで治安も悪くなりました。
普通なら、戦争を止めて税負担を減らし財政安定と治安の改善を目指しますが、武帝は民衆の暮らしぶりなど興味がないので死ぬまで戦争はやめませんでした。
むしろ犯罪を取り締まり、脱税や不正蓄財をする地域の土豪を摘発する酷吏をたくさん使って民衆の暮らしを監視することに力を注ぎました。
酷吏たちは寵姫の親戚や王侯貴族も容赦なく摘発したので、武帝から有能だと評価されます。
しかし、摘発内容ではなく摘発数で酷吏の評価や昇進を決めたことが失敗でした。
酷吏たちは点数稼ぎのために、どんな小さな罪でも強引に摘発して、一族まとめて死罪にするといった残酷な行為を国中で行いました。
そのため、摘発に耐えられずに賊になったり反乱を起こす者は逆に増加する一方でした。
また、摘発されることを恐れた王侯貴族が酷吏にワイロを提供したので、酷吏の間で不正が横行することになったのです。
しかし、武帝は摘発数や一時的な不正の減少に満足するだけで酷吏の不正は知りません。
官僚たちも、処罰されるのを恐れて誰も武帝に諫言しようとしませんでした。
しかし、酷吏の不正が明らかになると武帝は激怒し、彼らを一族まとめて皆殺しにしています。
自分の考えに忠実な者ばかりを優遇して、臣下はビビッて何もいえる雰囲気ではない。
まさにパワハラ上司のいる職場です。
意見を鵜呑みにして、感情で処罰をする
晩年の武帝は、自分が少しでも気にくわないと異常に厳しい処罰を簡単に下しました。
特にヒドイのが巫蠱の禍です。
漢の時代、殺したい者に見立てた人形を地中に埋めれば、その者を呪い殺すことができるという巫蠱の呪術が横行していました。
老齢になった武帝は病気がちになることが多く、自分の病は誰かが巫術で呪っているからではと疑うようになります。
皇后の衛皇后(衛青の姉)の妹を妻にもつ公孫賀は、宰相の地位にいましたが、その息子の公孫敬声の方は皇后の甥であることで驕り、横暴なふるまいをするバカ息子でした。
▽衛皇后(中国ドラマ『衛子夫』より)
その公孫敬声が公金横領で捕まると、ある罪人が公孫敬声は武帝の娘と密通しており、巫術で武帝を呪っていると告発しました。
それを聞いた武帝は、実際に巫術が行われていたのかよく調べずに公孫賀・公孫敬声の家族を一族皆殺しとしてしまいました。
また晩年の武帝は、江充という者を重用していました。
江充は酷吏のように王侯貴族も遠慮なく処罰したり、ぜいたくな振る舞いをしている者を摘発して匈奴遠征の軍隊に充てるなどの進言をしたので、武帝の信任が厚い人物でした。
しかし、皇太子の劉拠と仲が悪く、武帝が死んだ後にこの皇太子が皇帝に即位すれば自分が誅殺されると考えました。
▽皇太子 劉拠(中国ドラマ『衛子夫』より)
そこで知恵をめぐらして、巧妙に皇太子の屋敷に人形を隠したあとで、皇太子の屋敷から巫術に使用する人形が発見されたと告発したのです。
これを聞いた武帝は大激怒。皇太子が謀反を起こしたと決めつけました。
もうこうなると、皇太子は武帝に弁明することも難しくなります。
追い詰められた皇太子は、蜂起をして捕らえにきた江充を斬殺しますが、謀反とされ、鎮圧にきた大軍と交戦して最後は自害してしまいました。
皇太子の家族も乳飲み子一人(のちの宣帝)を除き、すべて皆殺しにされました。
また、皇太子の蜂起の際に宰相であった劉屈氂の子は、武帝の寵愛する李夫人(李広利の妹)を妻にしていました。
武帝と李夫人の間には、劉髆という息子がいましたが、劉屈氂と李広利は密かにこの劉髆を次の皇太子にしようと話し合ったと言われています。
その噂をきいた、宮廷の者が皇太子擁立の画策の件と、武帝から叱責されていた劉屈氂が恨んで巫術で武帝を呪っていると告発したのです。
その結果、武帝は大激怒。またもやよく調べもせずに劉屈氂と李広利一家を皆殺しにしました。
※李広利自身は匈奴への遠征中でしたが、この事件に絶望して匈奴に帰順しました。
このように、武帝は片方の意見や告発を鵜呑みにして、簡単に皆殺しにすることが非常に多かったのです。
まとめ
このように、自分のやりたい放題だった武帝ですが、度重なる出費により、漢は国力を大幅に減少させました。
そしてせっかく獲得した領土も手放すことになり、滅亡に向かっていくことになったのです。
武帝在世中の漢の宮廷では、武帝の機嫌を損ねないように常に家臣がビクついていて、諫言する者はほぼいなかったんじゃないでしょうか?
パワハラの上司がいるブラック企業って感じだったんじゃないかと思います。
せっかく広げた領土も武帝死後は、維持できずに縮小していきました。
個人的には、国内を混乱に陥れた武帝がなぜこんなに評価されるのかな~と不思議に思いました。
コメント