【中国史】少林寺の歴史1

通史

中国拳法といえば、「少林寺」の言葉がまず挙がります。

この少林寺。
昔、ジェット・リーが主演した「少林寺」という映画で知名度が一気にあがりました。
つい最近では「少林サッカー」なんかも話題になってますよね。

 

少林寺の武術を参考にした少林寺拳法も日本では人気のスポーツとなってます。

でも、「少林寺」ってお寺ですよね。
なんで武術が有名なんでしょうか?

今日はそこへんの疑問を、少林寺の歴史とともに紹介します!

 少林寺の建立

そもそも「少林寺」が建立されたのは南北朝の北魏時代です。
北魏の皇帝は仏教に対する尊崇の念が厚く、お寺を各地に建てて、わざわざインドから身分の高い僧を招いてたりしていました。

 ▽北魏の孝文帝

 

495年。北魏の孝文帝は、インドから跋陀という僧を招きました。

跋陀は、河南省にある嵩山に寺を建立したのですが、このお寺は小室山という嵩山の連峰に位置していたため、「少林寺」と名付けられました。

跋陀は少林寺で仏法を説きました。
「信じる者は救われる!お釈迦様の教えを守りましょう!」
仏教が国教とされ、また相次ぐ戦乱で人々の心も荒んでいました。

説法を聞いた人々が弟子になると同時に、そこそこの規模になっていく少林寺。

しかし、この時点では少林寺は、数ある禅寺の一つにしかすぎませんでした。
とりたてて有名なお寺ではなかったのです。

 達磨大師の登場

527年。孝明帝の時代にインドから有名な達磨が中国に招かれました。

 

実は、この達磨こそが、少林寺で初めて武術を広めた者という説があります。

少林寺に着いた達磨は、少室山の洞窟にこもり、9年間、壁面を前にして座禅を組み続けました。
瞑想して、悟りを開こうとしたのです。

しかし、飲まず食わずで座禅しつづけることはできません。
また、血流が悪くなり体力も低下するため運動も必要です。
生きるためには洞窟の外に出て、山の果実や水を飲む必要がありますが、山賊や野生の動物に襲われる危険性もありました。

そのため、達磨は身体を鍛え、座禅に専念できるように武術の修練を行いました。

この達磨の武術は、弟子の慧可が「羅漢十八手」という型にして、「達磨易筋経」という武術の本にしていますが、この本は現代にも伝わっています。

 ▽「易筋経」身体にも良いらしい
 

ただ、達磨が少林寺の武術開祖だというはっきりとした証拠はないようです。
だれが少林寺で武術を始めたのか。

まだ結論はでていませんが北魏の時代には既に武術を扱う僧侶がいたことは確かなようです。

 唐の天下統一に貢献した少林十三僧

時代は下って、隋唐の時代。
隋の皇帝も仏教を厚く信奉しており、少林寺にも周辺の広大な田畑が寄進されました。

しかし、隋が滅んで群雄割拠になると状況は一変。

戦乱によって飢えた民衆が暴動を起こして、略奪目的で少林寺に押しかけました。

「あの寺は広い田んぼや畑もあって裕福だ。占拠して残らず刈り取ってしまえ!」

 

当時の少林寺は、まだ武術が浸透しておらず、荒らしまわる暴徒相手に何もできませんでした。

また、暴徒以上にやっかいだったのが、地盤をもつ群雄でした。
洛陽で皇帝を称した王世充も、少林寺の広大な田畑を占拠するよう甥の王仁則に命じています。

 ▽王世充
 

この暴挙に少林寺の僧侶も、とうとう堪忍袋の尾が切れました。

ある日、少林寺の僧侶百人が奇襲をかけて、王仁則を捕縛することに成功します。
そして、王仁則を少林寺に好意的だった唐軍の李世民に引き渡したのです。

のちに唐が中国を統一すると、皇帝となった李世民は、少林寺と、とくに優秀な十三人の僧にたくさんの褒章を授けたという伝説が残っています。

 ▽太宗 李世民と少林寺十三僧
 

※この伝説は、ジェットリー主演の映画「少林寺」の題材にもなっているので、興味のある方は、ぜひ観てください。

この活躍から少林寺の威名は天下に響き渡り、「天下第一名刹」と呼ばれるようになります。

 

武術のルーツは、実際はここから始まったのかもしれません。

唐の歴代皇帝たちは、少林寺に土地を寄進して厚く信奉しました。
その結果、唐末には僧侶の数も2000人を数えるほどになったと記録されています。

 記録の少ない時代

唐末~宋初期にかけて、少林寺の史料はほとんどなく、詳細はわかっていません。
ただし、宋まで少林寺が残っていることから、唐末の戦乱も少林僧の武術で乗り越えたのではないかといわれています。

宋の時代になると、少林寺の名前が再び登場します。
太祖・趙匡胤の編み出した「太祖長拳」が少林寺に残るなど、民間武術との交流も活発でした。

▽「太祖長拳」については、こちらで紹介しています!
優れた武闘派皇帝たち

この時期には、既に少林寺で独自の武装した僧の集団がいたことがわかっています。

北宋の徽宗時代には、趙宗印という僧が、朝廷から宣撫司参議官というれっきとした官職を授かり、「尊勝隊」という少林僧の武装集団を率いて、金軍と戦っています。

 

 元軍に従って、反元勢力を殲滅

南宋が滅び、元が中国を統一すると、少林寺は思い切った選択をしました。
モンゴル人国家である元の支配に抵抗する勢力が多いなか、少林寺は元の支配に反発せずに忠実であろうとしたのです。

「国家にたてついたら、何をされるかわからない」
戦乱時は、勢いのある勢力に味方をしたほうが生き延びやすいことを少林寺は学んでいました。

強大な元に睨まれたら、いつ取り潰しとなってしまうかわかりません。
疑いを晴らすためにも、命令されれば反元勢力をつぶす役目も果たしました。

 ▽元の初代皇帝フビライ。少林寺に多額の寄進をした。
 

元に反抗的な勢力がどんどん潰されるなかで、少林寺は武装を許された上に元の皇帝からも厚く保護され過去最大の規模となることができたのです。

 紅巾の乱による壊滅と、少林棍の誕生

こうした行為は当然、漢人たちの猛烈な反発を招きました。

元が衰退し、紅巾賊と呼ばれた農民反乱が起きると、少林寺は敵対勢力とみなされ大規模な攻撃を受けることになりました。

▽紅巾賊の絵。頭に紅巾を巻いていた。
 

「少林寺の奴らはモンゴル人の犬だ!何してもかまわん。徹底的に壊せ!」 

いくら武装した僧たちとはいえ、大軍で攻められたらひとたまりもありません。
圧倒的兵力の前になすすべもなく少林寺は敗れ、多くの建物が燃やされ田畑は荒れはてたと言われています。

実はこの戦いで、伝説に残るエピソードが生まれています。

当時、髪もそらずに体中毛むくじゃらの異様な姿の男が少林寺の炊事場で働いていました。
普段から寡黙で、もくもくと与えられた仕事をするばかり。
誰も彼の名前を知りませんでした。

ある日、紅巾軍が少林寺の麓まで攻め込んできました。
突然のことに、僧たちはなすすべもなくうろたえるばかり。
その時、あの炊事場で働いていた男が、炭をかき回すのに使う火かき棒()を手にして、猛然と敵前に飛び出しました。

そして何メートルもの大きさに巨大化し、自らを「緊那羅王」と名乗って敵兵を威嚇すると、恐怖のあまり、たまらず敵兵は退散したと言われています。

▽少林寺のシンボル「緊那羅王」
 

この話はあくまで伝説であるため、本当に緊那羅王のような人物がいたのかは不明です。
しかし、元末期以降から少林寺では、この緊那羅王を奉じて、武術のなかでも特に棍術の修練に励むようになっていきます。

有名な少林棍術が誕生した瞬間でした。

 

 まとめ

北魏~元までの少林寺の歴史を紹介しました。
第二回目では、明~現代の少林寺の歴史を紹介する予定です!

【中国史】少林寺の歴史2

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