【中国史】少林寺の歴史2

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 前回に引き続き、少林寺の歴史を調べました。
 今回は、明~現代までを紹介します。

 ▽創設~元代まではこちらで紹介しています。
 少林寺はいかにして生まれたのか?①

 少林拳の誕生~武術界の頂点になる

 明初期は、少林寺にとって不遇の時代でした。
 明という国は、少林寺を攻めた紅巾賊が前身であり(朱元璋は紅巾賊出身)以前は敵同士でした。

 また、一般人が立身出世するには科挙に合格するしかない世の中にあって、武術や仏教などは軽く見られていました。

 

 そのため、今までの仏教を信奉する異民族王朝と違って、国からの寄進もなく、少林寺は民衆の拠りどころとして細々と存在しているにすぎなかったのです。

 しかし、武術の発展が少林寺の立場を大きく変えていきます。

 元末期の緊那羅王伝説以来、少林寺の僧たちは拳術と棍術を中心に武術の研鑽に励みました。
師匠からの口伝や秘伝の武術書をみて修行を続けていく毎日。
何代にもわたって武術を研鑽していった結果、「少林拳」という独自の流派を築きます。

 

 自信をつけた少林僧たちは、外敵との戦いにも積極的に参加するようになります。
 とくに成化~正徳帝時代にかけて活躍した周友という少林寺の高僧は、中国全土に遠征に行ったことで有名です。彼は武装した少林僧を率いて、河南で起きた劉六・劉七の農民反乱や雲南で起きたミャオ族の反乱を官軍と協力してつぎつぎと鎮圧する功をたてました。

 ▽少林寺の伝説的な僧 周友

 また中国各地で1000人以上もの弟子をとり、少林拳を教えています。
そして、伝授された弟子たちが、少林拳を家族に伝授したり、基礎をもとに新たな流派を作ったりしたことで、中国武術は飛躍的に発展していきました。

 また明代中期は、外敵(北虜南倭)にも悩まされた時代です。
 平和に慣れ切った明の官軍では、戦国時代真っ只中の日本から襲撃にくる倭寇(真倭・日本人)に 歯が立ちませんでした。

 ▽明軍と倭寇との戦い
 

 このままでは、内陸部まで侵略されてしまう。
武術を軽視している余裕はありません。すぐにでも倭寇を戦える軍隊を作る必要がありました。

 そう考えた明の将軍たちは、一計を案じます。
「かの有名な少林寺の僧たちに助けてもらおう!武勇に優れた少林僧であれば、倭寇鎮圧に必ず役に立ってくれるはず。直接戦闘に参加するだけでなく、軟弱な兵士の武術指導もできるだろう」

 ▽倭寇鎮圧に向かう明の官軍
 

 この時代、倭寇との戦いで多くの少林僧が歴史に名を残しています。
 倭寇鎮圧で有名な武将 愈大猷も、少林寺の僧に3年間軍事教練を依頼したと言われています。

 ▽愈大猷

 こうした少林僧の活躍は、明から高く評価され、数多くの褒賞や建物の寄進を受けています。
また、数多くの有名人が旅の途中で少林寺に出向き、少林僧たちの武芸をみては、その多彩で巧妙な武術を称賛する記録を残しています。

 明代の外敵との戦いがあったからこそ、武術の少林寺としての有名になったといっても過言ではなかったのです。

 庇護と監視

 こうして武術の最高峰として君臨することになった少林寺ですが、明が滅び満州族の清が建つと、不安定な立場に立たされることになります。

 清も、北魏・唐・元と同じく異民族王朝であり(唐は異説あり)、仏教に寛容で尚武の精神と尊ぶことでは同じでした。
しかし、満州族の統治に不満をもつ漢族の武術家が公然と『反清復明』を掲げて、少林寺に隠れ住んでいたため、少林寺は清に疑惑を向けられたのです。

 

 「少林寺を旗印に、満州族どもをうち滅ぼそう!」

 
反対勢力が武の象徴である少林寺に集まることは、ある意味当然の成り行きでした。

 ただ、少林寺も過去の歴史から学んでいます。

 「国家に盾突いたら寺そのものが危ない」
 清に疑われたら、少林寺は取り潰されかねません。
 そのため、積極的に寺内に潜伏する反清勢力を官憲につきだして、疑いを晴らそうとしました。

 大局に逆らわずに、素直に従う。
危ない芽を摘まみ出すことで少林寺は清代も存続することが許されたのです。

 その結果、清との関係も改善。
歴代皇帝もたびたび少林寺に参内して、自ら額縁を寄贈したりしています。

 ▽康熙帝が揮毫した扁額
 

 焼き討ちでほとんどの建物・文化財を失う

 中華民国時代は、少林寺に悲劇の時代そのものでした。

 中華民国は各地で軍閥同士が争うなど、統治は盤石ではありませんでした。
戦乱のなかを逃げてきた農民が少林寺に助けを求めてきたため、当時の方丈(少林寺のトップ)であった恒林和尚は、ある決意をしました。

 「銃を配備して、軍閥どもから少林寺と民を守らなければ!」

 この銃を装備した武装組織は、少林保衛団と呼ばれました。
もはや棍術や拳法で身を守れる時代ではなかったのです。

 しかし、1948年、少林寺に悲劇が起きました。
 軍閥の一人である馮玉祥の部下、石友三が少林寺を包囲。最新鋭の銃火器で、激しい砲撃をしてきたのです。
 ▽国民党系列の将軍 石友三

 

 「少林寺は敵軍の根城になっている。我らの司令部とするぞ!」

 激しい戦いの結果、少林寺は敵軍の撃退には成功しました。

 しかし砲撃により、多くの建物(天王殿・大雄宝殿・鼓楼など)が壊され、200人以上の僧侶が殺されたと言われています。同時に少林寺代々の貴重な文献や宝物など5480巻余が消滅してしまいました。

 ▽破壊された緊那羅殿と緊那羅王の銅像

 ▽この事件は、アンディ・ラウ主演の映画『新少林寺』の元ネタにもなっています。

 一度の攻撃で長年の蓄積を多く失い、栄華を誇った少林寺は衰退。
しばらく停滞の時期を送ることになります。

 文化大革命による廃寺の危機

 国共内戦で中華民国から中華人民共和国になると少林寺は廃寺の危機にあいます。

 1960年代から起こった『文化大革命』。
古い価値観や文化が徹底的に否定されたこの革命に少林寺も巻き込まれました。

 「時代遅れの少林寺を徹底的に壊せ!僧侶どもは還俗させろ!」

 

 猛烈な紅衛兵の勢いに少林寺はなすすべもありませんでした。
 建物や仏像は壊され、残った僧たちは無理やり還俗させられました。

 ▽破壊される仏像

▽強制的に還俗させられる僧

 この後、十年以上も寺に僧がいない時が続き、少林拳の武術伝承も途絶えたと言われています。 

 少林寺は、廃寺間近にまで追い込まれたのです。
※今でも、文化大革命によりはっきりとした被害は不明です。
還俗させられた僧侶がその後どうなったのか?今でもわかりません。

 復興とエンタメ

 文化大革命の終了後、紅衛兵の行いを反省した政府によって、少林寺は保護されました。
残った建物が文化遺産に登録され、過去に破壊された建物も少しづつ再建されています。

 最近は、映画などで世界的に有名になり、少林寺は観光客が押し寄せる人気スポットとして生まれ変わりました。

 ▽少林寺CEOとも揶揄される釈永信方丈

 しかし、中華民国期の攻撃と、文化大革命による迫害で大きな被害を受けた少林寺は、残された文献も少なく、多くの武術の伝承が途絶えてしまいました。

 まとめ

 昔の少林僧は、 「武術鍛錬はあくまで心身を鍛えて、悟りをひらくための道具にすぎない」と言っています。
確かに歴史をみると、戦乱に巻きこまれずに修行に専念できるように、否応なしに武術を身に着けざるをえなかったのかもしれません。

 今後、どこまで少林寺が復興できるのかは不明ですが、過去の僧たちがそうであったように、落ち着いて心身を修練する場であり続けてもらいたいと思います。

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