【中国史】美しすぎたために、悲劇にあった中国史の美女たち

通史

女性なら誰でも容姿が美しい人をうらやましいと感じるもの。
どんなに貧しくても、皇帝や貴族に見初められれば玉の輿も狙えます。

しかし、歴史を調べると、美人すぎたがゆえに災難に巻き込まれたり、悲しい生涯を送らざるをえなかった女性たちも数多く存在しました。

今日は、中国史に残る悲劇の皇后たちを紹介します。

西晋武帝の楊皇后(楊芷)

楊芷は、西晋の武帝(司馬炎)の二番目の皇后です。

最初の皇后である楊艶が病気で亡くなる間際に、従妹の楊芷が品が良く美しいため次の皇后にふさわしいと推薦したことから武帝の皇后となりました。

楊艶が推薦した通り、楊芷は美しく上品な女性でした。
また周囲に気遣いのできる、物腰の物静かな性格だったようです。
武帝も、そんな楊芷を大いに寵愛しました。

▽晋武帝司馬炎の肖像


楊芷の一族につぎつぎと要職を与えるなど、度を超えた優遇をしたため、外戚となった楊一族は天下三楊(父の楊駿・兄の楊珧と楊済)と呼ばれるほどの権勢を手にしました。

しかし、ある出来事が楊芷の人生をかえてしまう要因になりました。

皇太子司馬衷の妻である賈南風は、残忍で嫉妬深い性格。


賈南風は、司馬衷の妾が妊娠しているのを知って、妾もろとも子を殺害する暴挙にでたのです。

自分の孫を殺された武帝は大激怒。
皇太子妃の位を奪って宮殿の一室に監禁しようと考えました。
その時、優しい性格の楊芷は、「賈南風は、功臣である賈充殿の娘です。彼女が嫉妬深く過ちを犯したとはいえ、賈充殿の徳を忘れてはなりません」と武帝を説得。怒りを静めています。

のちに宮廷を牛耳り希代の悪女といわれる賈南風ですが、この時の楊芷の説得がなければ、彼女は皇后になることさえできなかったんですね。

この後も、楊芷はたびたび賈南風の立ち振る舞いや品行の悪さを諫めたようです。
しかし、自分を助けてくれた恩人が楊芷であることを知らなかった賈南風は、武帝の前で辱めを受けていると勘違いし、楊芷を逆恨みする始末。

賈南風のために良かれと思って言ったことが、すべて裏目にでてしまったのです。

そんな中、病になった武帝は死が近いことを悟ると、暗愚な皇太子司馬衷の行く末を案じて、叔父の司馬亮(司馬懿の3男)と楊駿(楊芷の父)に後事をたくしました。
しかし、楊芷は楊駿に言われるがまま「楊駿1人に後見を託す」と遺言書の内容を改ざん。
武帝が崩御すると同時に楊芷は皇太后となり、楊駿ら楊一族が独裁政治を始めてしまいました。

当然各諸王は反発。
楊一族誅すべし!と息巻きますが、挙兵には口実が必要です。
そこで彼らは、皇太子妃の賈南風に相談しました。

「楊駿が、密かに謀反を企んでいることにしてしまおう。謀反であれば、楊一族を全員誅殺することができる」
奸智に長けた賈南風は、こうアドバイスをして挙兵を助けました。

諸王軍の前に、楊一族はなすすべもありませんでした。
一族は皆殺しにされ、関係者を含めて3千人あまりが処刑されたといわれています。

そして賈南風は、楊芷の母親にも死罪を命じます。
専横とは無縁の慎ましい生活をしていた楊芷の母親への、この命令は苛酷なものでした。
母が殺されると聞いた楊芷は絶叫し、髪を振り乱して賈南風の前で必死に叩頭をして情けを求めたと言われています。
しかし、楊芷を骨の髄まで恨んでいた賈南風はこの哀願を無視。

「楊一族も邪魔だったが、私を見下し続けた楊芷を絶対に許さない!」
賈南風は異常に権勢欲が強いだけでなく、楊芷が自分を貶めたと思い込んでいたのです。

「もはやお前は皇太后などではない。お前の母親も楊一族として死罪に処す!」
そう宣告して、楊芷の母親も処刑してしまいました。

家族全員を殺され、反逆者の汚名を着せられた楊芷。
命をかけてまで彼女を弁護しようと者はもはやいませんでした。
宮廷で権力を握った賈南風は、楊芷を監禁し、食事を一切与えないよう命令を出します。
食べるもののなくなった楊芷は、8日目にして失意のうちに餓死してしまいました。

前趙劉淵の単皇后

単皇后は、前趙の建国者である劉淵の二番目の皇后です。

劉淵は匈奴系の部族出身であり、単皇后もチベット系の氐族首長の娘であったため、非漢族同士の結婚ということになります。

▽前趙の開祖 劉淵

単皇后は劉淵との間に、劉乂という息子をもうけました。
劉淵が死去し、劉乂の兄である劉聡が皇帝になると、単皇后は皇太后として尊ばれました。

しかし、容姿端麗であった単皇太后には悪夢が待っていました。
色欲が強かった劉聡は、単皇太后の美貌に目がくらみ、自分の後宮に無理やり入れてしまったのです。※匈奴の風習では、父が死んだ後、父の愛妾を息子が継ぐことが許されていた。

しかし、実の息子である劉乂は、漢族の風習に慣れていたため、この劉聡の仕打ちに激怒。
「義理の息子の妾になるなどまるで近親相姦です。母上は、獣のような行いをしているのです。
どうかおやめください!」

劉乂は、劉聡と単皇太后になんども諫めましたが、劉聡が聞き入れることはありません。
内心、恥ずべき事と感じていた単皇太后は、思い悩んだあまり自殺してしまいました。

北斉文宣帝の李皇后(李祖娥)

李皇后は、以前ブログで紹介した文宣帝(高洋)の皇后です。

▽文宣帝についてはコチラで紹介しています。
中国暴君列伝 酒浸りのイカれた皇帝~北斉の文宣帝〜
中国暴君列伝 酒浸りのイカれた皇帝~北斉の文宣帝2〜

李皇后の本名は李祖娥。
目を見張るほどの抜群の美女だったといわれています。

そんな李祖娥は、東魏の実力者であった高歓の次男・高洋の妻でした。
高洋が東魏の皇帝から禅譲を受けて北斉を建てて皇帝(文宣帝)に即位すると、李祖娥も皇后になります。

しかし、旦那の文宣帝といえば、歴史書にも残るほどの残虐な皇帝。


自分の家臣や妃たちを鞭で叩いて苦しんだり血を流すのをみながら酒を飲むという異常癖がありましたが、この李祖娥にだけは礼節を守って鞭で叩くことはなかったと言います。

ただし、李祖娥の家族になると話は別。
ある日、文宣帝が李祖娥の実家に遊びにくるなり

「俺は酔って自分の母にさえ手を出したのだ!※こんなばあさんなど射殺してやるわ!」
※文宣帝は泥酔を注意した母親に暴力をふるったことがあった。
と叫び、李祖娥の母親を的にして弓矢で射たと言われています。

まあ、文宣帝から暴力を受けていない者を探すほうが大変なくらいです。

しかし、文宣帝が死ぬと李皇后の命運は一気に暗転します。

文宣帝との間には、高殷と高紹徳という二人の息子がいました。
兄の高殷が後継として皇帝になっていましたが、文宣帝の弟である高演と高湛はもともと野心の塊のような人物だったため、到底高殷の即位に承服できません。
密かに帝位を狙っていました。

▽高湛(のちの武成帝)

そのため家臣たちは、反逆を未然に防ごうと高演と高湛の暗殺を計画するも、計画がばれたうえに逆に高演と高湛の命令で殺されてしまいました。
圧力に耐えられなくなった高殷は退位。高演が次の皇帝に即位(孝昭帝)します。

しかし、孝昭帝からみれば、高殷を生かしておけばいつ反乱を起こすかわかりません。
孝成帝は邪魔者でしかない高殷を密かに暗殺してしまったのです。
哀れ息子を殺された李祖娥ですが、さらなる悲劇が待ち受けていました。

孝昭帝が在位わずか1年で死ぬと、今度は高湛が即位(武成帝)します。
この武成帝は、色欲の塊で美女であれば臣下の妻でも奪うほどだったようです。

李祖娥も武成帝の毒牙から逃れることはできませんでした。
彼女の美貌に目をつけた武成帝は、李祖娥に肉体関係を強要します。

「もし従わなかったら、お前の息子(高紹徳)を殺す」
息子を立て続けに失うことを恐れた李祖娥は従うしかありませんでした。
すると、ほどなくして李祖娥は武成帝の子を妊娠。

そこに息子の高紹徳が、母を見舞いに宮中に来ますが、妊娠中の李祖娥は会うことができません。「母上は、父上とは別の男(武成帝)の子を妊娠したからと会ってくださらないのだ!」
そう高紹徳になじられた李祖娥は、恥ずかしさのあまり出産した娘を取り上げませんでした。

生まれた娘が故意に殺されたことを知った武成帝は激怒。
「お前が私の娘を殺したのだから、今度は私がお前の息子を殺す」
そう李祖娥をなじって、宮中に高紹徳を呼び出すと
「私がお前の父親(文宣帝)に殴られている時、お前は見ているだけで何も助けてくれなかったな!」

そう言いがかりをつけて、李祖娥の目の前で自ら高紹徳を斬り殺してしまったのです。
息子が殺される光景をみた李祖娥はあまりのショックに激しく泣き叫びました。


しかし、それがますます武成帝の怒りに火を注ぐ結果に。
李祖娥を全裸にして、鞭で叩いたため、李祖娥の悲しむ声が宮中に響き渡ったと言われています。

 

その後、意識を失った李祖娥は全裸のまま麻袋に入れられて川に投げ捨てられますが、奇跡的に息を吹き返します。
あまりにも辛い経験をした李祖娥は、宮廷には戻らず、人知れず尼として余生を送りました。

まとめ

いやー、調べていると皇后たちが哀れすぎて書くのがつらい。
彼女たちのような善人よりも、したたかな悪人のほうがしぶとく生き残っている気がします。

▽パート2はコチラ
【中国史】美しすぎたために、悲劇にあった中国史の美女たち2

 

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