【中国史】美しすぎたために、悲劇にあった中国史の美女たち2

通史

前回に引き続き、美人すぎたために悲劇にあった皇后たちを紹介します。

▽1部はこちら
【中国史】美しすぎたために、悲劇にあった中国史の美女たち

遼(契丹)道宗の簫皇后(簫観音)

簫観音は、遼(契丹から国号を変更)の第8代皇帝道宗の皇后です。

彼女はずば抜けた美しさをもつと同時に、優しく温和な性格でした。
また、論議を好み、詩を詠んだり琵琶を弾くこともできる多種多芸な美女だったようです。

遼の皇太子耶律洪基と結婚しますが、二人の仲は良く、息子の耶律濬を含む1男3女を産んでいます。耶律洪基が即位(道宗)後は、簫観音も皇后になりました。

▽夫の道宗(耶律洪基)

しかし、道宗が政治に飽きてきて遊びに夢中になると雲行きはあやしくなっていきます。

根が真面目な簫観音は、宮殿の空気がゆるみ、腐敗している現状を許せませんでした。

ある日、皇帝の叔父である耶律重元の妻が艶めかしい化粧をして自慢するのを目撃した簫観音は、「皇族の妻たるもの、みだりに化粧をして品を落としてはなりません」とたしなめました。

しかし、宮中で恥をかかされたと思い込んだ叔父の妻に逆恨みをされる結果に。

また、夫の道宗が狩猟ばかりに夢中になり、政務をおろそかにしているのを見て
「陛下は国の重責を担うお方。狩りはほどほどになさいませ」
と強く戒めるも、遊び人であった道宗からは煙たい存在と思われ、寵愛を失う結果となります。

簫観音としては、節度ある皇后として当然のことを言ったまでかもしれません。
しかし、長年の平和で堕落していた宮廷の人々からすると、正論をいう彼女は邪魔な存在となっていきました。

宮中で孤立を深めた簫観音は、個室にこもって一人で息子の耶律濬を育てる決意をします。
音楽に囲まれる生活を送ろうと、簫の名人であった趙惟一という宮中芸人を側で仕えさせて、詩を詠んだり歌を歌ったりと趣味に生きる生活を送りました。

しかし、無能な道宗に隠れて多額の賄賂を受け取ったり邪魔な政敵を排除するなど朝廷を牛耳っていた宰相の耶律乙幸と張孝傑は、英明といわれた皇太子の耶律濬が皇帝になれば自分たちの立場が危ないと判断。

▽遼の宰相 耶律乙幸

まずは皇后の簫観音を排除しようとする計画が密かに動いていました。
そして宮女や侍従と共謀して、簫観音と趙惟一が密通していると道宗に上奏したのです。

驚いた道宗は、事実か確認するよう宰相の耶律乙幸に命令します。
しかし、そもそも耶律乙幸は首謀者の一人であるため、密通は間違いないと嘘の供述をしました。

このとき、遼の宮廷は腐敗しきっていました。
「耶律乙幸に逆らったら、自分たちの出世が途絶えるどころか命まで危ない」

そう判断した宮廷人は、誰一人として簫観音の弁護をしませんでした。
また道宗自身が簫観音への愛情が覚めてきておりのもあって、密通は事実であると断定。
冤罪にもかかわらず、道宗は簫観音に首を吊って自殺するよう命じます(賜死)

哀れ簫観音は宮廷の腐敗に耐えられずに正論を言ったがために、彼らの反発を招き不幸な結末をすることになってしまいました。
※ちなみに息子の耶律濬も、耶律乙幸の謀反の企てありという偽の証言で殺されています。

簫観音の遺体は、実家の簫家に送られたあと乱暴に放置されていましたが、孫の天祚帝の手によって道宗の陵墓に合葬されています。
しかし、腐敗しきっていた遼は、その後すぐに金によって滅ぼされてしまいました。
遼の歴代皇帝の陵墓が金軍の手によって暴かれ軍馬で踏みつぶされてしまったため、簫観音の遺体や墓の所在はわからなくなったままです。

南唐李煜の小周后

小周后は、五代十国時代の南唐の皇帝李煜の皇后です(実名は不明なため、皇后になるまでは周氏と記載します)

姉の周娥皇とともに、地元で有名な美人姉妹でした。
周氏は、姉と14歳の年の差があり、周娥皇が李煜の寵愛を受けて皇后(大周后と呼ばれた)となったときは、周氏はまだ14歳でした。

大周后が生んだ皇子が幼くして死ぬと、ショックを受けた大周后は体調が悪化(宮中で毒を盛られた可能性もあり)。病床に臥すことが多くなります。
周氏は、姉を見舞いに宮殿にきたところを李煜に見つかり、強引に手籠めにされました。

しばらくして妹が宮中にいることを怪しんだ大周后が
「お前はいつ宮中に来たの?」
と尋ねたところ、周氏は
「つい数日前ですわよ。お姉さま」
と、李煜と逢瀬していたことを匂わす発言をしました。

大周后は、李煜と周氏が密通している事実に気づき、自分を裏切った二人を深く恨んだといいます。大周后はそのまま体調が戻らず亡くなります。

愛する大周后の死に、当初は悲しんでいた李煜も、その3年後には周氏と結婚。
彼女を二番目の皇后としました(姉の周娥皇は大周后、妹の周氏は小周后と呼ばれている)

李煜は詩人でもあり、小周后のために多くの詩を残しています。

しかし、皇后になってから8年後。
華北の宋軍が南唐を攻撃し、首都の金陵(南京)は陥落。

李煜と小周后らは捕虜とされ、開封に連行されました。
二人はそれぞれ、違命候と鄭国夫人という称号を与えられますが、小周后には思わぬ災難が待っていました。

宋の太宗である趙匡義は、名君として有名ですが小周后の美貌に目がくらみ、彼女を理由をつけて開封の宮殿に呼び出しては無理やり関係を迫りました。

▽詳細は、こちらで紹介しています。
ドスケベな皇帝たち~北宋第2代皇帝 太宗~

▽宋の太宗 趙匡義の肖像

夫がいるとはいえ、今は捕らわれの身。抵抗すれば李煜が何をされるかわかりません。
泣く泣く太宗の凌辱を受け入れ続ける日々を送ることになりました。

久しぶりに家に戻ったあとも小周后が絶望のあまり、李煜をふがいなさを激しくなじることが多かったと言われています。

また、趙匡義は小周后との行為を絵画に残すなど、彼女の人格を否定するような行いもしたため、恥辱と絶望に耐えられなくなった小周后は、李煜が謀反の疑いで毒殺されたあとを追う形で病死しています。
わずか28歳の生涯でした。

北宋欽宗の朱皇后

朱皇后は、北宋時代の第9代皇帝である欽宗(趙桓)の皇后です(本名は不明)

▽朱皇后の肖像

父の朱伯材は、節度使という官職に就く軍人でした。

趙恒が太子であったときに14歳で皇太子妃となり、23歳のときに趙桓が即位。
欽宗の皇后となります。

▽欽宗の肖像画

朱皇后は、容姿が美しいだけでなく、非常に優しく穏やかな性格でした。
また、詩や絵画などの芸術の才能もあり、欽宗に愛されて皇太子と皇女の二子を産んでいます。

しかし、1127年に、彼女を含め宮廷人の人生を一変させる出来事が起こります。
この時期、北宋は末期的な状態でした。
官僚は私利私欲に溺れ、政治は腐敗。新興勢力の北方の金の猛攻を止めることができませんでした。

▽北宋滅亡の要因 徽宗皇帝について紹介しています。
中国暗君列伝④ 北宋を滅亡させた風流天子~徽宗~

北宋の首都である開封を陥落させた金軍は、北宋の徽宗・欽宗の二帝と皇族や妃たち・官僚や下働きの宮女など3000人あまりを捕虜として北方へ連行していきました。
いわゆる靖康の変です。

▽靖康の変にいたる原因。宋軍の弱さはここで紹介しています!
宋軍はなぜメチャ弱かった?

金軍の捕虜に対する扱いはひどいものでした。
北方の厳しい寒さにもかかわらず、着の身着のままで連行された宮廷人たちは薄着のまま。
茅草を燃やして暖をとることしか許されず、疲労で寝ることもできない日々が続きました。

しかし、それ以上に屈辱だったのが、金軍の兵士たちによる、皇妃や宮女への暴行でした。
女性たちは、なんども凌辱されては望まない妊娠をし、疲労と栄養不足で流産を繰り返すという地獄のような日々を送ったと記録されています。


朱皇后も、その美貌のために金の軍人からの辱めを避けることができませんでした。

金の首都に到着した徽宗・欽宗と皇族たちは、さらなる屈辱を味わうことになります。


金の太祖の廟の前で土下座をさせられ上半身を裸にされて羊の皮衣を着させられたうえに、皇妃や宮女たちは戦利品として金の武将に分け与えられたり「洗衣院」という売春宿で性的奉仕を強要されました。

特に朱皇后には「賜浴」という、金の皇族と入浴して性的奉仕をするよう命令がでました。
屈辱に耐えきれなくなった朱皇后は、命令を受けたその日のうちに入水自殺をしています。
わずか25年の生涯でした。

まとめ

こうして調べると、ほぼ全員の皇妃は優しい性格で才能あふれる女性だったことがわかります。

夫や家族に恵まれず、宮廷に馴染めずに、悲劇の人生を送らざるを得なかった彼女たち。
逆に彼女たちが皇帝であったならば、きっと平和で安定した国にできたのではないかと思ってしまいました。

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