中国人に一番人気がある歴史上の武将って誰だと思いますか。
三國志の関羽や趙雲・曹操とかでしょうか?
もちろん彼らも有名ですが圧倒的に人気なのは、宋の時代に活躍した岳飛です。
日本人にはなじみの薄いマイナー武将ですが、中国では国民的英雄と言われるほど超有名な岳飛。
今日は、そんな岳飛の生涯について調べてみました。
靖康の変~北宋の滅亡
岳飛は北宋末期~南宋初期にかけて活躍した武将です。
彼が生きた12世紀前半の中国は、北方の女真族が建てた金が北宋を攻め滅ぼし、領土を拡大させている最中の時代でした。
金軍は1126年~1127年に、北宋の首都である開封を占領。
皇帝の欽宗と前皇帝の徽宗、その家族など全ての皇族や后妃、女官、官吏などを北方の地に連れ去ってしまいます(靖康の変)
▽徽宗の生涯はこちらで記事にしています!
この時、徽宗の九男である趙構だけが運よく開封を離れていたため、難を逃れました。
趙構は金の追撃から必死に逃れ、江南にある杭州を臨安と改めたうえで、皇帝に即位。
宋を復興(南宋)させました。
金軍が中国大陸に進出して華北を征圧するまでの間、わずか2年。
ここまで短期間で領土を拡大した理由は、宋軍(北宋軍)がメチャクチャ弱かったことにあります。
▽宋軍が弱かった理由はこちらで記事にしてます。
南宋も、軍隊が弱いのは北宋と同じ。
精強な金軍相手になすすべもなく連戦連敗でした。
あっという間に長江も越えられ、南宋が滅ぶのも時間の問題かと思われていました。
こんな非常事態の時期に、金軍に猛烈に抵抗した人物こそ岳飛だったのです。
農民の子として生まれる
岳飛は、相州湯陰県(現在の河南省南陽市)で、豪農の子として生まれました。
彼が生まれたとき、母親が夢の中で大鵬が家の屋根に飛んでくる光景を見たことから、名前を飛・字を鵬挙としたと言われています。
幼い時から武術の修練と勉学に励み、300斤ほどの重い弓も軽々と扱えるほどの力の持ち主であったようです。
成長した岳飛は、靖康の変が起こった年の前後に宗沢という武将の下で軍人となります。
その後、南宋が興ると、高宗の下に参じて、金軍との数々の戦に身を投じることになりました。
軍人になるにあたって、岳飛は、母親に「尽忠報国」という入れ墨を背中に入れてもらい、国のために忠義を尽くすという堅い決意を示したといいます。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」
精強な岳家軍の成立
元来のリーダーシップに加え多くの戦での経験を通じて岳飛はメキメキと頭角を表し始めます。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」
まず長江を越えて侵攻していた金軍から華南の地を守り切り、それまで連戦連勝であった金軍の勢いを止めることに成功。
出鼻をくじかれた金軍ですが、岳飛の軍(岳家軍とよばれた)は、非常に統制のとれた士気の高い軍であったと言われています。
なぜ岳飛の軍隊は強かったのか?
それは岳飛が類まれなる軍略の才をもつ優秀な武将であったことと、彼の率いる軍団が非常に統制のとれた強力であったことが大きな理由でした。
▽岳家軍の人物絵
▽岳飛の軍(岳家軍)が強かった理由についてはこの記事で説明しています。
軟弱な宋軍を侮っていたのに、岳家軍に手痛い敗北を喫した金軍は、岳飛を畏敬をこめて「岳爺爺」と呼びました。
「撼山易、撼岳家軍難」(山を動かすのはできても、岳家軍を動かすのは難しい)と言われたくらい、金軍からは特別に恐れられていたようです。
勢いに乗る岳家軍は、金軍に占領されていた建康や襄陽などの主要都市を奪回にも成功します。
皇帝の高宗も、「精忠岳飛」の四文字で岳飛をたたえるなど彼に信頼を置くようになりました。
ところでこの時期は、南宋には岳飛以外にも優秀な武将が多く登場しました。
張俊・韓世忠・劉光世など叩き上げの軍人が自前の軍隊を率いて金軍に抵抗し、徐々に勢いを盛り返すことに成功していたのです。
▽「中興四将」の絵~岳飛は左から二番目~
彼ら4人は「南宋の中興四将」とたたえられています。
北伐~首都奪回を目指して~
数々の戦で金軍を打ち破り、各地の反乱を鎮圧するなどして功績を重ねた岳家軍は10万前後の大軍に膨れ上がりました。
そして万全の用意ができた岳飛は、1140年に華北回復を目的とした北伐の軍を起こしました。滅亡も危ぶまれていた宋が、逆に金に攻め入るほどになったのです。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」
岳飛は文学の才能もあり、詩もよく残しています。
壮志飢餐胡慮肉、笑談渇飲匈奴血
(金の人間の肉を食らい、血を飲んで笑い飛ばそうぞ)
これは岳飛が北伐の際に、激情を込めて詠んだ詩ですが、いかに岳飛が中原回復を望んでいたか、熱い気持ちが伝わってきます。
岳飛は、鄭州・洛陽と華北の主要都市を奪回し、破竹の勢いで進撃しました。
そして、北宋の首都であった開封を目前にした朱仙鎮という場所で、金の主力部隊を撃破。
金軍を恐怖に陥れます。
いよいよ念願の華北回復まであと一歩。
岳家軍は奮い立ちました。
しかし開封奪回の直前に、なんと朝廷より兵を解散して、臨安に出頭しろという金字牌(皇帝の勅令)が届きました。
ここで反発して北伐を続けたら、岳飛は反逆者となることは確実。
岳飛は無念の気持ちをこらえたまま、なくなく北伐軍を解散するしかありませんでした。
秦檜による誣告
岳飛を臨安に戻らせた首謀者は、宰相の秦檜でした。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」~秦檜~
秦檜は、岳飛が謀反をたくらんだと罪をでっち上げて、牢獄に収監。
そして岳飛に対して厳しい拷問を行い自白させようとしました。
この秦檜とはどんな人物でしょうか?
秦檜は、もともと北宋時代から使える官僚でした。
靖康の変で徽宗・欽宗や他の皇族ともども金軍に連行されましたが、他の臣下は金に屈せず、さらに北の辺境に連行されたのに対し、秦檜は金の指導者層にうまく取り入って、1130年に南宋に戻ることが出来た珍しい経歴の持ち主でした。
金の内情をよく知る秦檜は、高宗にこんな提言をしています。
「如欲天下無事、南自南、北自北」(戦のない世の中を目指すなら、北の事情と私たちの事情は分けて考えるべきです)
ざっくりいうと、金に占領された華北は諦めましょうってことです。
なんで、秦檜は領土放棄のようなやる気のないことをいったのか。
実は秦檜は、金で講和ができるのなら、戦はいらないという平和論者でした。
彼にとって、岳飛などの主戦派は和を乱す非常に邪魔だったのです。
ただ、あくまで岳飛ら軍人に撤兵の命令を出せるのは皇帝である高宗だけ。
そこで秦檜は、北伐に国力を減らすだけで利益がなく実害が多いと説き、岳飛に撤退命令を出させたと言われています。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」~高宗と秦檜~
ただ、なぜ高宗がすんなり命令を出したのか、本当のところは諸説あってはっきりしません。
▽撤退命令の理由はこの記事で検討しています。
謀反の罪で厳しい拷問を受ける岳飛ですが、彼はけっして屈しませんでした。
「天日照照(天は本当のことを知っている)」と言って嘘の自白はしなかったと言われています。
▽中国ドラマ「精忠岳飛より」~牢獄の岳飛~
岳飛の背中に「尽忠報国」と入れ墨があるのをみた取調人が、拷問をためらっているのをみた秦檜が、取調人を替えてより残虐な拷問をさせたという話があるほどです。
この時、共闘した軍人の多くが岳飛の謀反罪に疑問に感じていました。
抗金戦で岳飛とともに活躍していた韓世忠が、秦檜に謀反の証拠があるのか問い詰めたところ、秦檜は「莫須有」(あったかもしれない)と、苦し紛れの弁解をしています。
不確かな証拠で取調べをする秦檜に対して、韓世忠は、「そんな不確かなことで投獄するなど、天下が納得するか!」と激怒したと言われています。
しかし、1141年。
岳飛はついに謀反罪で処刑されてしまいました。
この後は、南宋は最後まで華北を回復できずに、1276年にモンゴル軍によって滅ぼされるまで長江以南のみを支配するに留まりました。
まとめ
その後、岳飛の名誉は回復され、岳王として神格化されるほどにまでになりました。
歴代の知識人や皇帝も岳飛を尊敬して、彼に対する評論などを数多く残しています。
逆に秦檜は、岳飛を冤罪で処刑したこと、華北回復の機会を放棄したことから奸臣・売国奴としてボロクソに叩かれるハメになりました。
臨安(杭州)には、今でもひざまづいた秦檜夫婦(妻も、岳飛の罪をでっち上げた協力者と言われている)の銅像があります。
つい最近まで、観光客がつばを吐くことが習慣になってました。
※現在は禁止されています。
▽この像です
金軍を追い詰めながらも、無念の最後を遂げた岳飛は、悲劇の名将として中国人に知らない人はいないといわれるくらいです。
日本でいう源義経みたいですね。
大活躍して成功した人物より、不運な名将のほうが人気があるのは中国も日本も同じようです。
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