中華統一を夢見た東晋最強の将軍~桓温~

魏晋南北朝

司馬懿・司馬昭と積み重ねて成立した西晋も晩年はひどい有り様でした。

初代皇帝の武帝(司馬炎)による奢侈や政治エスケープによって国は傾くことに。

ドスケベな皇帝たち~晋の武帝 司馬炎~

また、武帝死後に生じた八王の乱・永嘉によって晋は急速に弱体化。

あげくのはてに異民族に蹂躙されまくり、滅亡してしまいます。

捕らえられた皇帝も奴隷のようにこき使われたあげくに殺されるというみじめな最期を迎える始末でした。

一族の司馬睿が江南に逃げて、晋(東晋)を再興しますが

この国は力が弱く、常に華北の異民族国家(前趙、後趙や前秦など)に脅かされる有り様でした。

しかし、そのなかでも一人、往時の晋朝の領土回復を夢見た男がいました。

その名は、桓温、字は元子。

洛陽を取り戻し、中原回復まであと一歩というところまで迫った彼は東晋における最強の将軍といっていいでしょう。

桓温とはどんな人物だったのでしょうか?

東晋の麒麟児

桓温は312年に、東晋の武将である桓彝の息子として生まれます。

彼は若いときから立派な風貌をしており、品格がありました。

のちに官僚として重要な付き合いとなる劉惔という者からも、「桓温の姿は孫権や司馬懿にも似ている」と称賛されるほどでした。

桓温が18歳の時、蘇峻の乱という東晋を揺るがす一大反乱が発生します。

そのゴタゴタで、父の桓彝は反乱軍によって殺されてしまいました。

怒りに燃える桓温は、復讐を決意。

父を殺した犯人が反乱軍の将である韓晃という者であることを突き止めます。

日ごろから武器を枕の横において泣いて仇討ちを誓ったといいます。

そして韓晃が病死して、三人の息子が葬式を行うと知った桓温はついに実行にうつしました。

弔問客にまぎれて息子たちに忍び寄り、持っていた剣で一人を斬殺。

あわてて逃げる他の二人も追いかけて斬り殺したのです。

この壮絶な仇討ちは当時の人たちから子の鑑として称賛されますが、桓温の果断さを表すエピソードとしても知られています。

期待の若手

成長した桓温は、第二代皇帝である明帝の娘(公主)を結婚し、駙馬(皇帝の婿)となります。

しかし、彼が大器であることを見抜いていた重臣の庾翼は明帝にこう進言します。

「桓温は素晴らしい才能の持ち主です。
陛下はくれぐれも彼を単なる婿として扱わないようにしてください。もったいないですよ。
桓温にもし重職をあたえれば、必ず期待に応えましょう」

皇帝の婿でもあり、重臣の推挙もあって、桓温はトントン拍子に出世することに。

のちに推挙してくれた庾翼が北方の後趙と西方の成漢への遠征を計画した時、ほとんどの家臣が反対する中、桓温など僅かの者のみが外征に賛成しています。

しかし、345年に庾翼は志半ばで病死。

庾翼の担当した西府軍(現在の湖北・湖南省付近を防衛する軍隊)の後継者に桓温は抜擢されます。

この西府軍は、東晋の国境を防ぐ役目があり、大きな兵権が与えられていました。

このとき、桓温はわずか33歳。

この時から、彼の人生をかけた討伐の歴史が始まったのです。

蜀征伐

当時、蜀(現在の四川省)は西晋時代のゴタゴタに乗じて、異民族の成漢が統治していました。

しかし、この成漢も40年近くの長い統治で政治が緩み、堕落し始めていました。

また、成漢の皇帝であった李勢は暗君であると噂を聞いた桓温は、今攻めこめば必ずこの国を攻略できると考え、朝廷に征伐を願い出ます。

大半の重臣が無謀として反対するなか、袁喬という官僚のみが桓温の遠征に賛成しました。

「蜀は人口も多く豊かな土地です。あの諸葛孔明も蜀の地を基盤として魏に対抗できました。

 もしこの地を得られれば我らが晋は強国となれます。

 それに、成漢の皇帝は暗君であり、軍隊は緩み切っています。

 今、攻め込めば必ず皇帝を捕らえて、成漢を征服することができるでしょう」

この言葉に皇帝も、桓温を大将とした遠征軍の出兵を許可しました。

桓温は征伐の許可を受けて準備を始めます。。

成漢を攻略するまでは国に戻らないという決意のもと、3日分の兵糧しか持たない決死の軍隊を創設しました。

逃げ帰ることができないぞと兵士に覚悟をもたせて、士気を高める作戦にでました。

まるで、決死隊を率いて蜀漢を攻略した鄧艾のようです。

そして、この作戦は見事に命中しました。

桓温の軍は、成漢の軍勢を相手に連戦連勝。

あっという間に成漢の首都である成都を陥落させ、蜀の地を占領することができました。

わずか1万の兵で、しかもたった二か月で敵国を攻略するという空前絶後の戦果をあげた桓温の名声は天下に轟くことになったのです。

断腸の思い

ちなみに、このときに有名な言葉が生まれています。

桓温が蜀を攻略したとき、一人の兵士が子猿を捕まえていました。

母猿が子猿を取り返しにきましたが長い距離を追いかけてきたため、母猿は死んでしまいました。

その母猿の腸は悲しみのあまりねじれていたようです。

この逸話から、「断腸の思い」という故事成語が生まれました。

ちなみに、この話をきいた桓温は怒ってこの兵士を処罰したと伝わっています。

第一次北伐

今まで誰もできなかった蜀征圧を成功させた桓温には当然褒賞があたえられました。

しかし、同時に朝廷は桓温を警戒しはじめます。

というのも、もともと東晋という国は、華北から逃れてきたよそ者の皇族が建てた国であったので、皇帝や朝廷の権力基盤は脆弱でした。

そのため、武力は地方の豪族や軍閥に依存せざると得なかったのです。

蘇峻の乱も、軍閥の力を減らそうとして引き起こされた反乱でした。

蜀を征圧して軍事力を増加させた桓温もまた、東晋に反乱を起こすのではないかと危険視されていたのです。

そんな中、華北で猛威をふるっていた後趙の石虎が死んだという報告が届きました。

石虎ってどんな人? 暴力と恐怖で支配した狂気の皇帝

一大リーダーを失った後趙は急速に弱体化し、従っていた諸民族が次々に独立して華北は内戦状態となっていきました。

▽後趙崩壊後の周辺地図

これをチャンスとみた桓温は北伐を決意。

朝廷に出兵の許可を願いました。

しかし、桓温を警戒する朝廷は、なかなか許可を出しません。

すき間をつく絶好の機会だったのに、出兵の許可はなんと5年もの期間、出兵でませんでした。

その5年間で後趙は滅び、氐族の建てた前秦が急激に勢力を拡大し始めていました。

いつまでたっても出兵を許可しない朝廷にしびれを切らした桓温は、軍勢を率いて中央を恫喝するというキワドイ方法で北伐の許可を得ます。

ただ、すでに華北では前述の前秦がガッチリ支配を固めており、内戦のゴタゴタにつけこみ一気に華北を制圧するという目論みは潰えてしまいました。

しかし、チャンスを逃したとはいえ、桓温は満を持して北伐に向かいました。

桓温は、成漢を討伐した時と同じように電撃戦を決行します。

水陸両面から進軍した東晋軍は途中の城をつぎつぎに落としつつ、わずか2か月で長安を包囲するまでに至りました。

桓温軍の思わぬ強さにあわてた前秦軍はビビッて徹底した籠城戦に入りました。

そして周囲の稲など敵軍の食料となりそうな農作物をすべて刈ってしまったため、物資を補給できずに桓温軍は兵糧が底をつき始めました。

そのため、桓温は撤退を決断。

こうして1回目の北伐は失敗となりました。

しかし、長安という大都市を包囲することまでに迫った桓温の名声は高くなる一方でした。

ちなみに、この北伐で長安に迫った際に、心温めるエピソードがあります。

桓温は近くに住む民を労わったため、彼らは酒や牛肉を持参して東晋軍を歓迎しました。

その中に、西晋時代を知る老人がいて、「まさか今日になるまで、再び官軍(晋軍のこと)を観ることができるとは思わなかった!」と涙を流して喜んだそうです。

第二次北伐

長安を包囲したにせよ、攻略できなかった桓温は再び北伐を行う願いを出します。

しかし、相変わらず朝廷の官僚には桓温に妬みや警戒心をもつ者がおり、二回目の北伐の許可が出たのは許可願いを出し始めてから10回以上たった後でした。

味方に足を引っ張られながらも、桓温は再び北伐を実行します。

この遠征では、西晋の首都であった洛陽と大都市の許昌を攻略するのが目的でした。

桓温は前回と同じく、電撃戦法で水陸両面から北方に進出します。

この時、桓温は楼閣から洛陽などの中原を見渡して、「あの神州(中国の美称)が、こんな廃墟になってしまった!これも西晋の官僚どもが国を誤った方向に導いたからだ。」と気を吐いたといわれています。

進軍する東晋軍に対し、後秦の姚襄が大軍をもって桓温の軍を迎え撃ちますが、桓温自らが武装して戦ったこともあり、東晋軍の士気は急上昇。

東晋軍は大勝しました。

そして、勝った勢いそのままに洛陽を攻略することに成功します。

実に、西晋が滅んでから45年ぶりの旧都の奪還という快挙を成し遂げたのです。

桓温は、長らく放置されていた司馬懿や司馬昭などの西晋の帝王の陵墓を修復し、墓守を置いて弔ったといいます。

朝廷の妨害

かつての都、洛陽を回復したことで、桓温の功績は東晋に並ぶ者がいないほどになりました。

西晋時代の領土を取り戻す夢をもっていた桓温は、皇帝や官僚たちに建康(現在の都)から洛陽(以前の都)に移るように朝廷に上奏をしています。

しかし、この上奏は保守的な官僚たちによって却下されてしまいました。

東晋ができて40年が過ぎていました。

以前の西晋を知る者もほぼ生き残っていません。

安定した江南の土地を離れてまで、遠い戦乱続きの華北に戻りたいとはもはや誰も思わなくなっていたのです。

そうこうしているうちに、当時華北でもっとも勢いのあった前燕の大軍が進撃してきました。

洛陽の東晋軍は兵力が少なく、兵糧も乏しかったため、桓温は必死に敵の侵攻を食い止めます。

しかし、東晋の朝廷は桓温に軍隊を解散して都の建康に戻ってくるよう命令を出しました。

今、解散してはせっかく占領した洛陽を奪われ、華北も攻略できなくなる。

そう思った桓温は一度は命令を拒否しました。

しかし、度重なる帰還命令には逆らえず、なくなく戻るしかありませんでした。

その結果、攻略からわずか9年で、またもや洛陽は敵国に奪われることになります。

このように、桓温の北伐は一時的に領土を拡張できても、朝廷によって妨害されスムーズに進まないことが多かったのです。

土断の実行~東晋の絶対的権力者へ~

何度も朝廷に邪魔をされ、思うように北伐が進まないと感じた桓温は思い切った決断をします。

それは土断でした。

当時の東晋には、戦乱を逃れてきた北方出身の避難民と土着の民が混在していました。

しかし避難民は戸籍がないため、納税や兵役の義務がありませんでした。

そこで、桓温は避難民が今住んでいる土地に戸籍を登録する「土断」を行うことで、北伐に必要な税収と兵数を確保しようとしたのです。

この目論見は大成功し、桓温の軍隊は東晋で最大勢力を誇るようになります。

第三次北伐

充実した兵力を確保した桓温は、369年に大軍で三度目の北伐を決行します。

しかし、桓温はこの三度目の北伐で致命的なミスを犯すことに。

そのミスとは、兵糧の輸送ルートを十分に確保できていなかったことでした。

水運を利用して兵糧を運ぶ予定でしたが、敵の前燕軍に見破られルートを遮断しまったのです。

兵糧が不足して士気が低下したことにより、奇襲をうけた東晋軍は我先にと退却をはじめ、最終的に4万人もの死者を出す惨敗となりました。

桓温にとっては人生で始めての大敗でした。

この戦いにより、彼の東晋における威信は一時的に低下し、桓温に押されていた朝廷の保守的な官僚たちは息を吹き返し批判をはじめました。

全権委任の野心

北伐に失敗した桓温は、批判をなくすためにも、自分の朝廷における立場を盤石なものにしようと2つの行動をしました。

  1.  当時の皇帝である司馬奕が暗君だと理由で廃立するよう皇太后に進言。
    皇太后以下、官僚たちは桓温に対抗できずに廃立を決定
    桓温が支持する司馬昱という50歳すぎの皇族が新たな皇帝として即位。
  2.  朝廷の人事にも積極的に関与。
    自分に歯向かう者は閑職においやり、息のかかった人材を重職に就ける。

この計画は成功し、朝廷内で桓温に歯向かうものはほぼいなくなります。

しかし、新皇帝も即位後わずか半年ほどで病にたおれ、死んでしまいました。

このとき、桓温に「摂政として、国の全権を担ってほしい」と遺言していたのに、重臣の王坦之が「諸葛孔明のように皇帝を補佐せよ」と書き換えてしまったため、桓温は政権を完全に掌握することはできませんでした。

そして、これ以降は桓温は死ぬまで北伐を行うことができなくなってしまいました。

中原を回復するという桓温の悲願は夢のまま終わってしまったのです。

死去

北伐が果たせなかった失意からか、病にかかった桓温は373年に死去します。

62年の波乱の生涯でした。

その後

桓温が死んだあと、朝廷では権力争いがつづいて積極的に北伐を行う者はいませんでした。

30年後の、403年には桓温の末子である桓玄がクーデターを起こして、東晋を滅ぼします。

そして一時的ですが、楚という独立王朝を建てることに成功しました。

この時、桓温も皇帝である桓玄の父ということで、太祖という廟号が追尊されています。

歴史上では、晩年の桓温は帝位簒奪を目論んでいたという説が主流です。

それは息子の桓玄が東晋を滅ぼして、皇帝に即位しているからそう思われるんでしょう。

しかし、桓温自身が簒奪を計画していたことを裏付ける明確な史料はないのです。

もしかしたら、戦を好まない東晋の保守的な官僚からすれば、積極的な外征をした武断派の桓温は邪魔者でしかなかったのかもしれません。

もし、東晋が挙国一致して桓温の北伐に賛同していれば、中原を回復して中華統一することも夢ではなかったのではないかなと思います。

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