北宋一の無能っぷり~風流天子徽宗の最後は悲惨すぎる!

五代十国・宋

五代十国時代を過ぎたあたりから、快楽殺人とか鬼畜過ぎる暗君・暴君はいなくなります。
その代わり、なぜか政治を徹底的にサボる皇帝が増えてくる傾向があります。

北宋滅亡時の皇帝・徽宗もサボり皇帝として有名でした。

家臣に「皇帝にふさわしくない」とバカにされる

 徽宗の本名は「趙佶」といい、第7代皇帝である神宗の第11子(兄の多くが早死しているため、実質は第3子)として生まれました。

 趙佶は軽くて遊び好きな性格。

 兄の哲宗が、神宗の後を継いで即位していたこともあって、帝王学など学んでいませんでした。

 しかし、1,100年に哲宗が24歳の若さで死ぬと、彼に後継ぎの子がいなかったこともあって、趙佶は急きょ次期皇帝の最有力候補になってしまいました。

 ※もう一人の兄である趙佖は病弱という理由で優先度合いが低かった。

 ちなみに哲宗時代に宰相だった章惇は、 趙佶の軽い人となりを嫌って、「コイツを皇帝にしたらヤバい」と感じたようで、趙佶の皇帝即位に徹底反対しています。

 病弱でも趙佖のほうがマシだと判断して皇帝に推したり、あげくの果てには、皇太后(神宗の妻で哲宗の母)に、「趙佶様は、バカで浮ついてるので皇帝は任せられません!」と朝廷で発言したり。

 これだけ家臣に嫌われる趙佶ってどんだけ頼りない皇子だったんでしょうかね。

 しかし、皇太后が、「神宗の子供に優劣はない。趙佶に決まり!」と言ったことで、趙佶が第9大皇帝(徽宗)として即位することになりました。

 ※ちなみに、さんざん趙佶をこき下ろしまくった章惇は、即位した趙佶(徽宗)から恨まれて辺境に左遷され、借りる家もないまま、さみしく亡くなっています。

 造園にドハマりして、過重な負担をさせる

 徽宗も即位当初は、多少政治に興味があったようです。

 例えば、この時代は王安石がつくった新法を国是として行政の改革をすすめる新法派と、従来通りの貴族や地主の既得権益を保護して荒波をたてたくない旧法派が宮廷内で対立していたのですが、徽宗は新旧両派から官僚を採用するなど努力しています。

 しかし、もともとヤル気のない徽宗はすぐに政治に飽き始めました。

 彼は、政治よりも芸術にハマった人間で、特に絵画の才能はずば抜けていました。

▽例えば、この桃鳩図は、徽宗が描いた絵として日本の国宝にも指定されています。

▽こんな絵も描けちゃう才能の持ち主でした。

▽はたまたこんな絵も(听琴図)

 また、徽宗は造園という金のかかる趣味に夢中でした。

 自分の宮廷近くに、珍しい木や奇岩などで飾り立てた唯一無二の豪壮な庭園を作りたい。

 そんな夢に取りつかれた徽宗は全国から珍木や奇岩を取り寄せるよう命令します。

 これが有名な「花石網」です。

▽上海豫園にある、徽宗が収集した花石網

 この命令に官吏は恐怖しました。

 もし皇帝の命令に逆らったり失敗でもしたら、処罰どころか首が飛ぶかもしれない。

 そう考えて、必死になって珍品をかき集めたのです。

  •  「珍しければ、どんな手段でもいいから手に入れろ!」とばかりに、民の所有だろうが無理やり安く買いたたいたり、時には強奪。
  •  珍品を傷つかないよう厳重に梱包したり、巨木や巨石を運ぶ作業も人民にさせて大きな負担をかけさせる。
  •  水路で運ぶ時に邪魔な船はどかしたり、壊したりして民間の物流を停滞させる。
  •  陸路で運ぶ時も邪魔な民家は片っ端からぶっ壊す。

 そんなことを繰り返したため、民から恨みを買うことになりました。

 たとえ、徽宗に民に負担をかけるつもりがなくても、命令を受けた役人たちが悪評プンプンだったので、君主である徽宗の評価もがた落ちになってしまったのです。

 水滸伝にも登場する悪代官たちの登用

 大体、こういう政治に興味のない怠け者皇帝には、上手く取り入ろうとする家臣や宦官がつきものです。

 官僚の蔡京や、宦官の童貫がそうでした。

 まず蔡京。

 彼はもともと王安石の新法派に所属する官僚でしたが、自分より上の立場の人間に媚びへつらい、取り入ることが上手く、同じ新法派の人間からもかなり嫌われていました。

 しかし、徽宗が即位すると宰相となって権力を握り、新法派・旧法派関係なく、自分に歯向かう政敵はつぎつぎに排除・左遷しました。

 なんせ蔡京に気に入られなければ出世は望めない。

 そう考えた他の官僚がつぎつぎと賄賂を送り、清廉な政治家は排除されました。
そうしてどんどん政治が腐敗していきます。

 さすがに、徽宗も後悔して何度も蔡京を罷免してますが、芸術の感性があってたんでしょう。
その都度すぐに宰相に戻しています。

 結局、徽宗在任26年間のうち、16年もの間、蔡京が宰相の地位を独占していました。

 次に童貫。

 

 こいつもなかなかの曲者でした。

 蔡京と同じく芸術の趣味が同じということで徽宗の目に留まります。

 彼は宮廷の宦官でしたが、ムキムキで頼りがいがある風貌でした。

 また、武芸や兵法に妙に通じていたこともあって、徽宗から信頼されていた童貫は長年、禁軍のトップとして宋の軍事権を掌握していました。

 童貫も、軍費を着服したり、賄賂を要求したりと横暴なふるまいが多かったため、民からも恨まれることになります。

 前述の『花石網』の悪評や、蔡京や童貫などの悪徳役人の重税や搾取に耐えられなくなった民衆による反乱が各地で勃発することに。

 山東地方でも、宋江という者が反乱を起こしますが、これが後の『水滸伝』の題材になります。

 他にも、方臘の乱という大規模な農民反乱を起きていますが、童貫は大軍を率いて、反乱軍や信徒数十万人を殺し尽くすという残虐な鎮圧をしました。

 そのため、『水滸伝』では、蔡京や童貫は官軍の極悪人として描かれてます。

 政治は興味ないのに、功名心だけは強い

 徽宗は、政治にはヤル気がないのに、功名心はやたらある皇帝でした。

 当時、北方には遼という契丹人が建てた国があり、長年宋と勢力争いをしていました。

 しかし、遼は長年の平和な統治で政治が腐敗。
軍隊も衰えていたところを、女真族が建てた新興国の金に攻撃されていました。

 金は、遼を攻撃するにあたり、宋に共同作戦を提案します。

 長年、燕雲十六州という北部地方を遼に奪われていた宋は、いまこそ領土奪回のチャンスと提案に飛びつき、金と挟撃の盟約を結びました(海上の盟)

 宋は遼の重要都市である燕京(現在の北京)を前述した悪人の童貫を大将とする大軍で攻めますが、必死になって抵抗した遼軍に大敗してしまいます。

 実は、宋の軍隊は中国史上でもメチャクチャ弱いことで有名で、戦って勝てたことはほとんどなく、いつも金で平和を買っていたのです。

 金の猛攻で瀕死状態の遼に、大敗するという大失態を演じた童貫は自力では勝てないと判断して、あろうことか金に出兵を要請しました。

 要請に応じた金軍はやすやすと燕京を攻略して、燕雲十六州を占領。

 盟約どおりに金は十六州のうち六州を宋に割譲しますが、略奪して住民も強制移住させられており、かつ要請の代金として巨額の金銭を払うハメになったのです。

 約束違反してボコボコにされ「靖康の変」が起きる

 六州で満足すればよいのに、満足しなかったのが宋の運の尽きでした。

 今度はなんと遼の残兵と共謀して、金から残りの十州も奪還しようと試みます。

 しかし、最弱で有名な宋の軍隊。

 勇猛な騎馬軍団である金に勝てるはずがありません。

▽「鉄浮屠」と呼ばれた金軍の騎馬隊

 共謀がバレて、激怒した金軍によってボロ負けしただけでなく、中原深くまで侵攻を許し首都開封を包囲されてしまいました。

 この緊急事態にビビった徽宗は、「罪己詔」という、自分の過ちを謝罪する声明を出して退位し、皇太子の趙桓を皇帝(欽宗)に即位させます。

 ※このとき、徽宗お気に入りの家臣だった蔡京や童貫など六名の代表的な悪徳役人は「六賊」と批難され、すでに病死していた蔡京を除いて全員が処刑されています。

 ただ、金は宋軍が異常に弱いことに気付いた金軍は攻撃の手を緩めず、1,126年に開封は陥落。

 上皇の徽宗と皇帝の欽宗を含めたほぼすべての皇族と宮女や官僚・使用人など数多くが金軍によって北方に連行されてしまいました(靖康の変)

 北方での悲惨な暮らし

 連行された徽宗を待ち受けていたのは、苛酷な暮らしでした。

 多くの妃や皇女・女官などが連行途中で金軍の兵士に凌辱され、望まない妊娠をする者も多かったといいます。

▽靖康の変の人形


彼女たちは金の後宮に入れられた後、洗衣院という売春施設に入れられ、金の皇族や貴族への性的奉仕をさせられました。

▽捕虜として洗衣院に入れられる女性たち

 徽宗はというと、家族や家臣たちとは別に連れていかれ、金の皇帝の前で土下座をさせられるという屈辱を味わうハメになりました。

▽土下座をする徽宗と欽宗

 江南では徽宗の9男であった趙構が皇帝(高宗)に即位して南宋を成立させており、徽宗の立場は微妙なものとなっていきます。
※もし徽宗や欽宗が宋に戻ると、高宗の地位が危ぶまれるため、高宗は帰国を望まなかった。

 宋への帰国の望みがなくなった徽宗は、黒竜江省にある五国城という場所で暮らすようになりましたが、屈辱と異国の地での暮らしがこたえたためか、1135年に病死することになります。

 風流天子と自画自賛し、贅沢な生活を送った皇帝の哀れな最期でした。

 まとめ

 他の歴代暗君と比べて、徽宗はぶっ飛んだ暗君というレベルではなさそうです。

 ただし、奸臣を重用したことや戦が弱いのに妙な功名心で金に歯向かったのが運の尽きだったように思います。

 この後、宋(南宋)は岳飛らの武将によって一時的に勢いを盛り返すことになります。

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