中国の歴史=皇帝の歴史といっていいくらい、あまたの皇帝が君臨しました。
彼ら皇帝は皆大抵はスケベです。
というのも皇后一人だけで満足した皇帝などほぼいません。
ほとんどは何人、何十人もの側室がいたものです。
しかし、中には何百人、何千人もの女性をわが物にするとんでもないドスケベな皇帝もいました。
今回は、大量の女を囲んでウハウハな人生を送った晋の武帝 司馬炎を紹介します!
司馬炎ドスケベ伝説その1
三國志で有名な司馬懿の孫にして、三国統一を成し遂げた晋の初代皇帝である司馬炎。
彼も、若い時は政務に励み、忠臣の諫言をよく聞く英邁な君主でした。
有望な人材は身分や出生に関係なく積極的に採用し、敵対国の蜀や呉出身の降伏武将も積極的に用いています。
ただし、三国統一直前あたりから気が緩んできたのか、とくに性生活に乱れがでてきます。
273年には、民間の女子の結婚をすべて禁止して、選抜した5千人もの女性を後宮に入れています。
結婚させる前に俺が選ぶ権利がある!と言わんばかりの行為です。
281年にも、三国最後の王朝である呉を滅ぼした際に、最後の君主であった孫皓の後宮にいた5千人以上もの女性を部下に命じて強奪し、そっくり自分の後宮に入れてしまうという暴挙にでます。
征服した国の皇帝のものは俺のもの!というジャイアニズムですね。
実は、呉の孫皓も好色な人物として有名で、家臣や民衆から無理やり奪って自分のものにしてたんですが、司馬炎はそれ以上です。
もちろん宮仕えの女もいるので彼女たちを含めると全体で1万人いたようですが。
大ハーレムの完成ですね!
この1万近くの女性を無理やり江南から晋の都である洛陽に連れてきたのですが、この人数がきゃあきゃあ言いながら列をなして歩く様子は、圧倒されるようなもの凄い光景だったようです。
もともと自分の後宮にいる5千人+孫皓の後宮から強奪した5千人=1万人。
それに仕える宮女達を含めると..何万人もの女性が司馬炎ひとりのために後宮暮らしをしていたことになります。
司馬炎ドスケベ伝説その2
司馬炎はこの数万の女性がすべて自分のものになるということに驚喜しますが、彼だって皇帝とはいえ普通の人間。
全員の相手などできっこありません。
そこで、司馬炎はある考えを思いつきます。
それは、自分が乗った車を羊に引かせ、後宮内を歩かせて、羊の気が向くままに向かった先の屋敷に住む女性と一夜を過ごすという方法。
▽こんな感じだったようです。
数が多すぎるし、選抜しただけあってみんな美人ぞろいです。
司馬炎も選ぶのがめんどくさかったのかもしれません。ぶっちゃけ誰でもよかったんでしょうね。
もちろん後宮の女性たちは皇帝の寵愛を受けようと必死です。
大声で呼びかけたり、手を振ったり、果ては艶っぽい声で羊にささやいたり、あの手この手で羊が自宅前に来るように頑張りました。
司馬炎は、そんな光景をみて大満足。大笑いしたと伝わっています。
ある日、普段はなかなか真っ直ぐには歩かない羊が、脇目もふらずに一つの屋敷まで歩き、そこからぱったりと動かなくなりました。
興味をもった司馬炎がみてみると、なんと屋敷前に置いてあった竹の枝や葉っぱをムシャムシャ食べ、盆に入った塩水を飲んでいたのです。
実は、この屋敷の女性が羊の習性に詳しかったようで、事前に好物の竹と口直しの塩水を屋敷の前に用意していたのです。
※しかも塩水には少し酒が入っていて、気持ちよくなった羊が眠って、屋敷の前から動かなくなるように仕組んでました。
これに感心した司馬炎は、その日の夜はここの屋敷の女性と夜を共にしたようです。
するとあっという間に噂が広まり、どこの屋敷も競って竹や酒入りの塩水で羊を呼び込もうとするようになり、司馬炎も毎日場所を変えて夜を過ごしたといわれています。
ある意味公平かもしれませんが、それでも選ばれない女性が数千人もいて、彼女たちは司馬炎一人のために、無駄に余生を宮中で過ごすハメになってしまったのです。
司馬炎はこんな淫らな生活を繰り返して26人の男子と12人の女子を作りました。
ただ、何百人もの女性と行為をした割には、そこまで多い数でもない気もします。
歴史上には、100人単位で子供を作った君主もいるので、1万人のハーレム生活ならもっといてもいい気もしますが、そこらへんがどうだったかは不明です。
そして子供たちに王位と軍権を分与して国全体を一族で固め、有力者からの簒奪を防ごうとしましたが、結果は歴史のとおり。
分配された司馬炎の子供たちである各地の王同士の争いが原因で晋は滅びの道をたどることになってしまいました。
まとめ
晋朝にとって、恥ずかしい話だからなのか、正史ではあまり詳しく書かれていません。
しかし、たくさんの女性を囲って、せっせと小作りに励んだ結果が、子供同士の内乱による滅亡とはなんとも皮肉な気がしますね。
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