飛将軍と呼ばれた猛将 李広~キングダム信の子孫として1~

前漢・後漢

キングダムの主人公である信。

彼の本名が李信であることはマンガの冒頭でわかっています。

史実の李信は、秦の統一戦争を成し遂げるまで大将軍として活躍していたことはわかっていますが、統一後は何をしていたのかは、一切わかっていません。

しかし、彼の子孫が、その後の項羽と劉邦の戦いを乗り越えて漢朝の武将として伝説に残る活躍をしていたことはご存知でしたか?

今日は、そんな李信の子孫のうちの1人。「飛将軍」と呼ばれ敵国から恐れられた武将、李広について調べてみました。

李信の子孫として

李広は、漢の文帝の時代である紀元前184年に陝西省の成紀で生まれます。

李広の家は代々漢の将軍を輩出してきた武門の家柄であり、李広は李信の5代後の子孫でした。

李広も先祖と同じく、漢朝に軍人として仕え始めますが早くも若いときから勇将の片鱗をみせていました。

ある時、五代目皇帝である文帝の狩猟に付き従っていたところ、大きな虎が出没して皇帝に危険が迫る事態になったことがありました。

そんな時、見事な弓術で虎を射抜き皇帝を助けたのが李広でした。

文帝は、李広を「もし君が高祖(劉邦)の時代に生きてたなら、万戸侯(王侯)にでもなれただろうに」と絶賛しました。

漢の「飛将軍」

その後も、李広は軍人として主に北の匈奴との戦で活躍をしていきます。

40数年間の軍人生活の間に匈奴と大小の戦をすること総じて70以上。

その勇猛ぶりから、匈奴は彼を「漢の飛将軍」と呼び畏れました。

李広個人に対する評価も当時から高く、特に弓術は並外れた腕前で「絶大な膂力をもち、まるで猿のような長腕で操る弓術は神業の腕前。狙いすました一撃は石をも穿つ」と絶賛されていました。

また、「自分の兵士をいつくしみ、同士に兵士から慕われていた。受け取った褒賞は分け隔てなく部下に与え、戦場では部下と飲食を共にしていた。また清廉潔白であり、家財の蓄えは一切なかった」と人柄も素晴らしい人物として謳われていました。

そんな李広が前線で身体を張った文帝や次の景帝の代では、匈奴に侵略されることも少なく、安定した時代が続いていたのです。

武帝による苛酷な人事

しかし、景帝の次の武帝の代になると、衛青や霍去病といった若い才能のある武将が次々と輩出されていったことから、次第に李広の活躍の場は減っていくことになります。

紀元前129年には李広、公孫敖、公孫賀、衛青の4人に4万人の大軍で匈奴征伐に向かわせましたが、運悪く公孫敖の軍が匈奴の本体と接触。

李広も獅子奮迅の働きで対抗をしますが、とうとう捕虜となってしまいました。

しかし、李広のすごいところはこの後自力で脱出したこと。

得意の弓術で見張りの敵兵を殺して馬を奪い見事に漢に帰還しています。

ただ、当然戦功はないため懲罰として庶人(ただの人という意味)に降格させられました。

しかし、匈奴の脅威により再び召抱えられると、紀元前120年には張騫という武将とともに挟撃作戦を開始しますが、今度はこの張騫が出撃の期日に待ち合わず李広の提案した挟撃は失敗に終わります。

李広は4万の敵の大軍に囲まれながらも、獅子奮迅の働きで抵抗し、あと少しで兵糧も尽きておしまいかという時に張騫の救援で逃げることに成功しました。

しかし、功績はなく武帝の不満はつのるばかりです。

このように、たびたび出撃しても味方の早とちりや連携がうまく行かないなどの理由で武帝の時代は李広は不遇の時を過ごすことになってしまいました。

衛青との反目、そして死

そんな中、勢いのある衛青や霍去病は匈奴戦で功績をたて続け、反面、年配の李広に対する武帝の評価は悪くなる一方。

119年にはこの衛青、霍去病の二人を大将に任じて5万の騎兵で匈奴本陣を突く遠征を実行しました。

武帝の命令により、すでに60を超えた老将の李広は衛青の部隊に配属されますが、李広は先陣でないことに猛抗議をします。

そのため武帝は先陣を許可するふりをしますが、密かに衛青に対して李広を後続部隊に回すよう指示を出していました。

そのため、李広本人の希望と裏腹に後続として配置され後ほど戦闘に参加する予定が、たまたま道案内役が不在だったために砂漠で進路に迷い、李広は戦本番に間に合うことが出来ませんでした。

ここでも不運が重なり戦功を立てられなかった李広。

 

衛青から戦闘参加しなかった責任を追及されると、飛将軍とまで称えられたプライドもあったのでしょう。あまりの屈辱に耐えきれませんでした。

「私は若いときから匈奴と70数回以上も戦ってきたのに、今回は衛青大将軍によって後方配置され、たまたま道案内がいなかったために遅れて匈奴との戦に間に合わなかったんだ。これが、天命といわずしてなんと言おうか!」

そう言って激高し、自ら首をはねてしまったのです。

65歳の生涯でした。

成蹊大学の由来にもなった?

李広の死は当時の軍人や官僚のみならず民衆の間でも深く悲しまれたといいます。

『史記』の作者である司馬遷は史記中で李広のことを絶賛しています。

「李広将軍は清廉潔白な人物であった。彼自身は寡黙な性格で多くを語らなかったが、彼を慕う人物は多く兵卒にも絶大な人気があった。まさに彼こそが真の士大夫ではないだろうか?

まさに“桃李不言,下自成蹊(桃や李は語らないが、その甘い果実を求めて多くの人が求める。自然と樹の下には道ができる)ではないか」

この桃李不言,下自成蹊は東京にある成蹊大学の学校名の由来にもなっています。

実は意外と戦では負けてた?

飛将軍といわれ、匈奴の脅威となるも悲劇の最後となった李広。

面白いのが、後の世で李広を評価しているのは司馬遷などの士大夫や文人官僚がメインで、あまり軍人は評価していないことが多いんです。

実は李広は著名な戦では負けてることも多く、良将とは言えないのではという議論もされています。※普通に捕虜にもなってますしね。

ただ、文帝や景帝の時代は李広が匈奴との戦いを一手に担っていた実績も考えると、武帝の気分や思い付きで振り回されてしまった気もします。
これは次回の李陵の記事でもいえますが。

しかし、彼のエピソードを調べると単に勇猛であっただけではなく、その人柄が素晴らしかったことが士大夫などに大きく評価されているようです。

勇猛だけでなく、部下にも慕われていたからこそ強い軍隊を維持できた李広。

信の血は、子孫にもしっかりと受け継がれていたのかもしれません。

 

次は、李広の孫である李陵について紹介します。

家族を皆殺しにされた李陵~キングダムの信の子孫として2~

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