中国史上、最も高給取りなのは宋の官僚だった?

五代十国・宋

(北宋・南宋)は、中国史上、最も官僚が偉い時代だったといわれています。

それはなぜか?

太祖・趙匡胤は、唐以降、多くの国家が強力な軍人によってメチャクチャに荒らされていたことを反省し、官僚が国を統治する仕組み(シビリアンコントロール)を作りました。

▽太祖・趙匡胤

軍人には好き勝手させねーぞ!というワケです。

そして、官僚になるためには、絶対「科挙」に合格しないといけない決まりを、中国史上初めて導入したのも趙匡胤です。

▽皇帝自らが試験官となる科挙「殿試」の様子

この趙匡胤の意志は、宋代の国是として歴代皇帝にも引き継がれました。
第3代皇帝の真宗は、こんなハッパをかけています。

「科挙の勉強を頑張れよ!合格さえすれば、富も豪邸も身分も美女も全部お前のもんだ。」

▽三代皇帝・真宗。官僚同士が議論できる場を設けました。

事実、科挙に合格すればこの世の天国ともいうべき幸せな生活が待っていました。
なにが幸せかというと、給料など待遇がメチャクチャ良かったのです。

今日は、そんな宋の官僚の給料について紹介します!

平均給料はどれくらい?

結論からいうと、宋の官僚に対する給料は現在の価値で、16、2万元~324万元くらいだったといわれています。
日本円に換算すると、だいたい260万円~5000万円くらいです。

こうやってみると、かなりバラつきがありますね。

ただ、宰相クラスの官僚もいれば、田舎の県令クラスの小役人もいるので、地位によって年収もかなり違ったようです。
今でいえば、上は国会議員~下は田舎の公務員という感じでしょうか。

ただ、これは現代中国の人民元に換算しており、今の中国人の平均年収が130万円ほどだと考えると、小役人程度でも比較的ゆとりのある生活は送れたようです。

各種手当の種類がたくさん!

実は、上記の基本給以外にも、さまざまな手当がありました。
茶銭・酒銭・木材銭・媒炭銭・服装銭・餐銭など種類もさまざまだったようです。

茶銭・・・仕事上、色んな人と会う時にお茶ぐらい出すだろ!という名目で支給。
酒銭・・・上記の茶銭の酒バージョン。いわゆる交際費。飲み会代です。
木材銭・・・官僚だったらちゃんとした家に住めよ!という家屋建築手当。
媒炭銭・・・寒い冬は炭を燃やして温まろう!という木炭手当。
服装銭・・・官僚たるもの、威厳のある服装をしなさい!という衣服手当。
餐銭・・・単純に飯代です。

こうやってみると、何かと口実を作って手当をつけてますね。
基本給だけでも十分に暮らせるのに、上記で挙げた手当は仕事上というよりも、もはや豊かに生活するための国からのご褒美みたいなもんです。

何も買わなくても国が生活面までサポートしてくれる。
こんなウハウハな生活が、科挙合格者には待ち受けていたのです。

▽宋時代 官僚の邸宅の絵

そりゃあ、人生をかけて科挙に受かろうと必死になる気持ちもわかります。

国会議員も真っ青の待遇の良さ

官僚の定年は明確に定まっていなかったようです。

▽老人官僚も多かったようです。

ただ、儒教的な習慣から70歳が定年退職の目途だったとも言われています。

給料の良さから、途中退職する人がほとんどおらず、たまりかねて皇帝が退職するよう要請する有り様でした。

退職後も、退職金と年金が支給され続け、故郷でゆうゆうと余生を送ることができたようです。

歴史上の有名人は、どれだけもらってたの?

では実際、宋の時代に活躍した有名な官僚がどれだけ給料をもらっていたのか調べました!

まず、神宗皇帝のときに活躍した新法をたちあげた王安石です。

▽北宋中期の宰相・王安石


国のためなら地主や権力者からも税金を徴収して国庫の安定を図る。

公平で断固とした政治改革を行ったとして有名な王安石も、給料は良かったようです。

王安石の一月の給料は、だいたい10万元くらい。
年換算すると、おおよそ130万元(日本円で2,100万円)だったようです。
※ただし、あくまで基本給のみなので、地位相当の手当やワイロを含めればもっと貰ってたのではと言われています。

では、中国版大岡越前とも言われ、中国人に大人気の包拯はどうだったでしょうか?

▽中国人に大人気の名裁判官 包拯

諸説ありますが、包拯は宰相の給料を余裕で越えて、年間1,000万元(日本円で1億6,000万円)位もらってたと言われています。

王安石の給料余裕で越えてますよね。
現代でいえば、大企業のワンマン社長なみです。

これは包拯が10以上もの官職を兼任しており、多くの副収入があったため。
肩書きをもつだけで、特に仕事をしていなくても安定して給料をもらえました。

宋という時代は、人徳が優れている者はどんどん推薦されて官職を得ることができた時代です。
逆に言うと、人付き合いが悪かったりする者は、どんなに能力が高くても推薦されずに官職を得られないまま。

宰相を数年やるよりも、地方の高級官吏を歴任したほうが、実入りがよかったようです。
王安石も、包拯などの大物官僚が官職を兼任し続けるために、他の官僚のポストがなくなっている現状に批判をしていました。

ワイロや不正を許さず、公平な裁判をしたとして有名な包拯ですが、自分がこれだけ高級取りなら、ワイロなんて受け取る必要もないですよね。

虚職に対する支払いもあった?

宋の実務は、科挙に合格した官僚が行っていました。

しかし、その定員にも限りがあります。
実は、宋は極端な文治主義の関係で、科挙で合格する文人数が多いわりに定員が少ないという人あぶれの状態が日常茶飯事でした。
※これは上述した、包拯などの大物官僚が官職を兼任しまくっていたことも大きいようです。

そこで、実際に役職に就いていない科挙合格者(虚職)にも、一定額の支給がされて、生活に困らないように保証されていたといいます。

こんなことをして国庫から金をバラまいていたため、宋の財政はだんだん悪化していきました。

▽科挙試験に臨む書生たち

忠臣が多かった?

また、宋の太祖(趙匡胤)は、子孫に向けて「どんなに気に入らない意見をいう家臣がいても、決して殺してはいけない」という遺訓を残しています。

そのため、宋朝では官僚が政争で負けても、せいぜい降格や官職はく奪、遠方に流罪になる程度で、決して処刑されませんでした。
朝廷でも、皇帝と官僚たちが自由に答弁ができるなど、官僚にとっては過ごしやすく快適な職場環境だったようです。

給料も高く、職場環境も比較的良い。

そのためなのか、宋では忠臣が多く登場しました。
北宋や南宋の滅亡時にも、皇帝とともに殉職したり最後まで節を曲げずに浪人として過ごしたり。

文を尊ぶ気風から、南宋が滅びた時点で「華夏(真の中華)は宋にて滅ぶ」とまで言われました。

まとめ

のちの明朝では、逆に給料が低すぎたり、簡単に殺されたりと官僚の待遇は最悪だったようです。
そのためか、滅亡時に皇帝に最後まで忠義を尽くす者は少なく、清朝に寝返る者ばかりでした。

やっぱり、どれだけ仕事のやりがいがあっても、給料が低いと人間やる気をなくすという良い見本のような気がしました。

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