歴史の教科書だけみると、世界帝国であった元(モンゴル帝国)は、衰退していた南宋を圧倒的兵力で叩き潰したような印象をもちませんか?
しかし、実際は30年近くもの間、南宋は元の侵攻を防ぎつづけることができました。
特に最後の数年間は、徹底抗戦をして元を苦しめた名将がいました。
その名は、呂文煥。
南宋の名将とも売国奴とも言われ、評価が分かれる呂文煥について紹介します。
「黒灰将軍」呂文徳の活躍
呂文煥には、呂文徳という兄がいました。
呂文煥の話をするには、まず呂文徳を紹介する必要があります。
呂文徳は、もともと薪割りの仕事をしていました。
しかし、モンゴル帝国により金が滅亡し、南宋への侵攻が始まると南宋の軍人募集に応募。
弟、呂文煥とともに軍人として、対モンゴル帝国の戦いに生涯を捧げることになります。
呂文徳の率いる軍は、精鋭で勇敢であることで有名でした。
大軍のモンゴル相手に、寡兵で奇襲をかけたり籠城して敵を撃破することも多く、モンゴル軍の南進阻止に貢献していました。
その勇敢な戦いぶりと、身体が大きく色黒であったことから、呂文徳は「黒灰将軍」とあだ名をつけられ威名が轟くようになります。
1259年には、モンゴル帝国のモンケ・ハーンとクビライ兄弟による大規模な侵攻を防いでいます。
このような多くの功績から、同年には京湖安撫使となり、南宋の最大の軍事拠点である襄陽の守備を任せられるまでになりました。
南宋初期の岳飛のように、軍閥勢力となって、南宋国境を守る大役に任命されたのです。
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弟、呂文煥も兄と協力して、モンゴル帝国との戦いに従事していたと考えられます。
南宋の生命線。襄陽・樊城
モンゴル軍の侵攻ルートは、淮河・湖北・四川の3つでした。
ただし、淮河の土地は、ぬかるんでいて騎馬の進軍が思うようにいきません。
四川も、辺境で攻めやすいが、首都臨安から遠く、占領されても大勢に影響はない場所です。
その点、湖北を占領されれば状況はガラッと変わります。
湖北の中心都市は、漢水流域の襄陽と樊城という二大都市でした。
▽襄陽城
ここを占領されると、長江沿いに首都・臨安まで一気に進軍されてしまいます。
南宋の朝廷も襄陽・樊城が生命線であることは十分わかっていました。
数々の対モンゴル戦で戦功をたてて経験豊富な呂文徳を襄陽・樊城の守備役に任命して、ありったけの食料を貯め込み、対モンゴルの最大拠点としたのです。
モンゴル帝国の思わぬ足踏み
実は、モンゴル帝国は呂文徳が襄陽の守備を担う20年以上前の1234年には、すでに華北の金を滅ぼしていました。
▽モンゴル帝国と金の戦い
彼らモンゴル軍の強みは、なんといってもその強力な騎馬軍団にありました。
平地ばかりの華北平原では、その無敵っぷりがいかんなく発揮されました。
同じ騎馬軍団を主力とする金をあっという間に滅ぼしましたが、その後の南宋征伐は思うように進みませんでした。
その理由はいくつかありました。
- 山河が多くて複雑な地形の華南地方では、騎馬の機動力を活かせなかった。
- 野戦がメインだったので、対南宋の攻城戦というものにも不慣れだった。
※南宋軍は、何十年も金の攻撃を防いできており、経験豊富だった。 - モンゴル帝国のハーンの地位をめぐる内紛が続き、南宋征伐の足並みがそろわなかった。
しかし、ハーンの位をめぐる争いにフビライが勝利し、1260年にモンゴル帝国第5代ハーンとして即位。国号を元と定めると状況は一変しました。
▽フビライ・ハン
準備を重ねたフビライは、「今こそ全力で攻める時」と南宋征伐を再会したのです。
フビライの策略と呂文徳の失敗
しかし、フビライは1259年の南宋征伐が失敗に終わった教訓を活かして、力攻めの命令はしませんでした。
敵軍に有利な地形で、かつ攻城戦をする不利を悟り、持久戦にもちこむ考えだったのです。
南宋からの降将である劉整のこんな意見を採用しています。
▽金→南宋→元と投降した武将 劉整
「襄陽と樊城は力攻めで落とさずとも、効果的に攻略できます。城主の呂文徳に、樊城近くに市場を作るよう提案をしましょう。そして、市場を守るという名目で砦を作ってしまうのです」
元軍のこの提案に対し、呂文徳は許可を与えました。
市場が繁栄すれば軍資金もうるおうため、この元軍の提案に乗ってしまったのです。
しかし、この判断がのちのち襄陽・樊城を苦境に立たせることになります。
許可を得た元軍は、市場を建設しつつも、市場を賊から守るためと理由をつけて、付近に砦をつぎつぎと建設し始めました。
さらに、これらの砦を土で作った長い壁でつなぐ工事も行いました。
その結果、襄陽・樊城は元軍が築いた長大な土璧と砦で完全に包囲されてしまいました。
自らの判断ミスで、窮地に追い込まれた呂文徳は、責任を感じて役目を降りること。
その後まもなく、病で亡くなってしまいました。
その後、襄陽・樊城の守備役の後任は、弟の呂文煥が継ぐことになります。
呂文煥の徹底抗戦
襄陽・樊城を包囲したとはいえ、慎重なフビライは新たな作戦を考えました。
7万ともいわれる大船団を造り、漢水に並べることで、水路も遮断したのです。
▽水陸両面から包囲される襄陽城
陸と河を防がれ完全に孤立した襄陽・樊城でしたが、呂文煥はあきらめませんでした。
「必ず援軍が来る!それまでなんとしてでも持ちこたえよ!」
いつか南宋の朝廷から援軍が来ると信じて、部下の兵士たちを必死に鼓舞し、決して城壁の中への元軍の侵入を許しませんでした。
▽呂文煥
長引く包囲によって食料が底を尽きかけたときも、自分の家族を城外に追い出してまで抗戦する意志を示したと言います。
この呂文煥の態度に、部下の兵士たちも士気が上昇。
包囲されてから、なんと5年たっても陥落せずに元軍を足止めすることに成功しました。
実はこの間、呂文煥は何度も南宋の朝廷に援軍を要請しています。
しかし、最後まで南宋の援軍が襄陽・樊城に入城することはありませんでした。
賈似道による援軍要請無視
南宋の朝廷では、宰相の賈似道が独裁政治を敷いていました。
▽賈似道
賈似道は、当時の皇帝である度宗から盲目的に信頼されており、他の官僚たちもあえて彼に歯向かう者はいませんでした。
▽南宋の官僚たち
ただし、襄陽・樊城が包囲されており、危険な状態にあることは賈似道も承知はしていたため、たびたび援軍自体は派兵していました。
しかし、国難ともいうべき危機なのに、僅かな兵力しか援軍を出さなかったり、どうしようもない指揮官に率いられていたのもあって、待ち伏せていた元軍に都度、殲滅されてしまったのです。
特に、1271年に娘婿の范文虎に10万の援軍を派兵させた時はヒドイものでした。
▽范文虎。
賈似道の血縁というだけで出世した者で、陣中でも「軍事ほったらかしで美女とたわむれ、ポロ(馬を使った球技)に夢中になる」ような、典型的なダメ人間でした。
水陸両方から援軍に向かいましたが、陸軍は待ち伏せていたモンゴルの包囲網に囲まれて全滅。水軍も、待機していた元軍の大船団に邪魔されて進めずに、船を焼かれて撤退する有り様でした。
1人だけ逃げ延びた范文虎を誅殺するよう要請がでても、賈似道は降格させるだけに留めました。
そして、その後は呂文煥の援軍要請を賈似道は無視しつづけたのです。
もし皇帝に襄陽・樊城が陥落の危機にあるを皇帝の度宗が知ったら自分の首が飛びかねません。
▽暗君として有名な南宋第6代皇帝 度宗
「包囲の様子はどうであるか?」
「我らの攻勢によってモンゴル軍は敗退しております。陛下はご安心ください」
皇帝に状況を聞かれても、ウソの報告をして襄陽・樊城の危機を伝えませんでした。
こんな話もあります。
「襄陽・樊城は包囲されていると聞いたが」
「いえ、包囲されてなどいません。誰ですか?そんな虚言をいう者は」
「珍は、宮廷の女官から聞いたぞ」
賈似道はさっそく、その女官を殺して口封じをしたといわれています。
もし皇帝に密告でもしようとする者がいれば、容赦なく殺したため、誰も逆らってまで皇帝に戦況を伝えようとはしませんでした。
度宗も、好色で政治に興味を示さない暗君であったため、これ以上襄陽・樊城の件に関する追求はありませんでした。
回回砲の登場~陥落~
長引く包囲戦の間、フビライは新たな兵器を導入しました。
その名も回回砲。
中東の技師に命じて作らせたカタパルト(投石器)でした。
この回回砲の威力は凄まじく、500メートル先まで投石することができたと言われています。
▽中東における攻城戦でも何度か使用されている
1273年、元軍は、導入したばかりの回回砲を北側の樊城に向けて発射しました。
発射された巨石は、遠く離れた樊城の城壁をたやすく破壊。
城壁が破壊され、丸裸となった樊城に元軍が入城し、城内は殺戮の場となりました。
樊城の守備役も含めて南宋軍は全滅。
片翼を失った襄陽は一気に劣勢に立たされました。
樊城を攻略した元軍は、今度は回回砲を樊城内に設置し、漢水を越えた目と鼻の先にある襄陽に向けて一斉発射しました。
▽襄陽城への回回砲による猛攻の様子を描いた絵
襄陽の城壁どころか城内の建物や民家が投石で破壊され、追い詰められる呂文煥。
なすすべもなく籠城する南宋軍の士気は低下していきました。
「打って出るか?援軍を待ちつつこのまま籠城して全滅するか?」
悩む呂文煥あてに、元軍の大将であるバヤン(伯顔)から文書が届きました。
▽元の名将バヤンと伝わる肖像画
「偉大なるハーンは、長年にわたり襄陽を死守する貴公の手腕を非常に評価しておられる。
もし、降伏するなら身の安全を保証の上、高い地位を約束しよう」
気持ちも折れかけていた呂文煥ですが、この時点では降伏勧告を断ります。
降伏勧告にきたかつての同僚である劉整に弩を射って負傷させ、追い出すほどでした。
しかし、敵軍大将であるバヤンが自ら出向き、呂文煥の前で、矢を折って不戦の誓いまで立てたことで、呂文煥はこらえていた気持ちを抑えられず、涙を流し降伏を決意しました。
そして、呂文煥は樊城のように城内の民衆が殺戮されないよう、「襄陽城内の民には決して危害を加えないこと」を条件として、襄陽を開城しました。
1273年のことでした。
元軍の大将として
元に投降した呂文煥は、大都(現在の北京)に住むフビライに拝謁に行きました。
そして、フビライから長年の抗戦をべた褒めされ、昭勇大将軍・侍衛親軍都指揮使という高い役職に就きました。
▽フビライと呂文煥
そしてフビライは、呂文煥にこう命令しました。
「残った南宋の都市に降伏の勧告をせよ。ムダな戦いをできるだけ避けて南宋を征服するように」呂文煥もその命令を忠実に守りました。
「もし降伏して開城するならば、偉大なるハーンは決して危害を加えない。安心してほしい。」
呂文煥率いる元軍は略奪を一切せず降伏するよう勧告したため、安心した南宋の都市はつぎつぎと降伏して開城しました。
それに焦ったのが、南宋の朝廷でした。
長年にわたり元軍の猛攻を防いできた呂文煥が、まさか元軍に寝返るとは思っていませんでした。ましてや、南宋の地形や実情に詳しい呂文煥が大将として進軍しているとの報告です。
南宋にとってこれほどの強敵は他にはいませんでした。
慌てた朝廷は、宰相の賈似道が自ら出陣するよう強要。
賈似道は仕方なく13万の水軍を率いて、大船団で元の水軍と対峙しました(丁家洲の戦い)
元軍を率いる大将は呂文煥。
以前の上司と部下が、敵と味方になって対決したのです。
しかし、文官で戦いに疎い賈似道は、元軍の威容にビビり、戦わずに小舟で逃走しました。
大将の敵前逃亡という醜態をみた南宋軍は一気に崩壊。
元軍の追撃を受けて、大敗を喫しました。
そして、呂文煥は1276年についに臨安に入城しました。
ここでも「臨安の軍民には一切、手を加えない」と宣言し、降伏・開城に導きました。
フビライの命令通り、戦いを最小限に抑えてムダな血を流すことなく、南宋を征服することに貢献したのです。
その後
この呂文煥の働きをフビライは絶賛しました。
功により、呂文煥は元の高官に出世。
元軍の中枢として10年間ほど働いた後、故郷の江南に戻り余生を送ったと言われています。
しかし、南宋から元に降ったことを批判する者も多く、呂文煥自身も気に病んでいたようです。
こんな話が残っています。
臨安に入城した際に、のちに南宋屈指の忠臣と呼ばれた文天祥という官僚と降伏調印のために会談をしました。
▽南宋の忠臣 文天祥
「南宋を裏切り敵国に降った逆臣めが何をいう!」
文天祥から厳しく指摘された呂文煥は恥ずかしさのあまり、反論できなかったといいます。
※この発言を危険視された文天祥は、のちに元軍の捕虜となっています。
このように、元に国を売ったとみなされて、売国奴ともいわれる呂文煥でしたが、賈似道によって援軍を妨害されたこともあり、元に降ったのは仕方のない面もあると思います。
また、南宋の民衆をムダな戦いに巻き込まずに無血開城させたことは、人道的な観点からも素晴らしいことだったのではないでしょうか?
筆者は、呂文煥は正当な評価が得られず、上司や時代に恵まれなかった不運な武将だったと思います。
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