女真族が興した金は、靖康の変で北宋を滅ぼすと、金が滅亡する1234年までだいたい100年くらいの間、華北地域を支配しました。
女真族の特徴として、「辮髪」という独特の髪型が挙げられます。
▽金時代の女真族の辮髪はこんな感じだったよう。
二本もしくは三本に編んで垂らしていた。
▽清時代の辮髪は一本に編んで垂らしていた。
前頭部から頭頂部まで髪を剃って、残った後頭部の髪を編んで垂らすこのスタイル。
なぜこんな髪型にしてたかというと・・・
・頭頂部から魂が飛び立つという俗信があった。
・編んだ辮髪を首に巻いて、首を斬られるのを防ぐためだった。
など、色々な説がありますが、はっきりとした理由はわかっていません。
ちなみに、17世紀に女真族の末裔ともいわれる満州族が興した清朝は、「剃髪易服」を決行。
漢族に辮髪と胡服(旗袍など)を強制して、従わない者は処刑しました。
じゃあ、ご先祖様が興した金では、辮髪を強制してたのか?
そんな疑問がでてきたので、調べてみました!
金統治初期
結論から言うと、漢族に辮髪を強制はしなかったようです。
というか、むしろ漢族が女真族の風俗をマネるのを禁止していました。
それはなぜか?
理由は二つありました。
一つ目の理由
女真族は自分たちが高貴な身分で、漢族とは違うという差別化を図っていました。
「お前らは、辮髪を真似るんじゃねーぞ!これは俺たち女真族のみが許される髪型だ」
唯一、金の高官となった漢族の人間にのみ女真族の風俗を認めることで、高貴な身分であることをアピールしていたのです。
二つ目の理由
もし辮髪を漢族にも強制すれば、猛烈な反発が想定されました。
「髪は父母からもらった大事な身体の一部だ。そんな野蛮な髪型にできるか!」
たかが髪型じゃん。そこまで怒らないでしょ?と思うかもしれません。
しかし、儒教が浸透している漢族では、髪を剃ることは親不孝としてご法度。
ただ単にダサいからという理由ではないのです。
▽漢族の伝統的な髪型「束髪」
※丸坊主の仏教徒は、俗世を捨てているので対象外。
もし、圧倒的大多数の漢族が一斉に反乱を起こせば、少数の女真族に勝ち目はありません。
支配基盤の固まっていない金にとって致命傷になることは避けたかったのです。
※ちなみに、清では辮髪の強制に対して、大反乱が起きました。
金統治中期
しかし、岳飛らの活躍で南宋が思ったより手強く、華南地域の支配が難しくなると、方針を変更。
▽金軍を押し返した岳飛率いる岳家軍
華南地域の支配を諦めて、支配地の漢族の士大夫全員に女真の風俗を強制したのです。
いつまでも、漢族の髪型(束髪)を認めていては、民族意識が高まってはたまりません。
自分たちの風俗を強制することで、金の支配下にあることを浸透させようとしたんですね。
金統治末期
しかし、金の統治も長くなると、女真族も漢族の風習に染まっていきました。
女真語を話す者も少なく、漢族の風俗(束髪や漢服)をする者が増えていったと言います。
13世紀にはチンギスカン率いるモンゴル帝国の侵攻が激化。
▽モンゴル軍
北はモンゴル・南は南宋と逃げ道をふさがれた女真族は、完全に漢族になりきることにしました。
この決定は、女真族にとっては幸運でも、漢族にとっては最悪でした。
モンゴル軍は女真族と漢族を見分けることができずに、手当たり次第に略奪・殺戮を繰り返したと言われています。
まとめ
金は支配地の漢族全員に辮髪を強制したわけではなかったようです。
逆にいえば、辮髪を全国民に強制しなかったがゆえに連帯感が薄まり、モンゴル軍に簡単に滅ぼされてしまったのかもしれませんね。
このことを教訓にしたのかは不明ですが、清は、辮髪を漢族に強制。
200年以上にわたり、中国を支配することに成功しました。
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