【中国 明代】永楽帝に献上された朝鮮貢女たちの哀れな生涯

朝鮮の歴史上、貢女という言葉がよく出てきます。
調べると、中国に献上する女性として、朝鮮で選抜された美女たちとのこと。

特に高麗と朝鮮王朝で多かったようです。

明の永楽帝は、たくさんの妃がいたことで有名ですが、その中には何人かの貢女がいました。

▽明の成祖 永楽帝


しかし、そんな彼女たちは、あまりにも悲しく哀れな最期を迎えています。

今日は、意外と知られていない永楽帝に献上された貢女たちを紹介します。

そもそも貢女って?

貢女とは、簡単にいうと中国への献上品の一つです。

女性を献上品にするなんてひどい!と思うかもしれません。
しかし、当時の朝鮮は明の属国の立場であり、そこには厳しい主従関係がありました。

明の使者(宦官などの内侍)は朝鮮に定期的に来ては、さまざまな献上品を要求しましたが、そのなかの1つに、「朝鮮国内の美女を集めて献上するように!」との要求があったのです。

もし要求を無視したり、適当に集めて「醜女ばかり集めおって!美人がいないではないか!」など難癖をつけられれば、明からどんな仕打ちを受けるかわかりません。

朝鮮もヘタをすれば国の存亡にかかわることから、必死でした。
貢女選抜のために、朝鮮国内の民間の婚姻を1~2か月間禁じる命令を出しています。

もちろん国民からすれば、大事な娘を献上品なんかにされたくありませんから、幼い時に婚姻させたり、わざと顔に傷をつけたりとあの手この手で逃れようとしたようです。

それでも、必ず貢女は選抜しないといけません。
何人かの少女たちは本人の意志など関係なく献上させられる運命にあったのです。

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献上された7人の貢女たち

永楽帝の妃のなかには、7人の貢女がいたことが文献からわかっています。

彼女たちの境遇はさまざまでした。
家族と無理やり引き離される者もいれば、逆に家族の名誉や栄達のために売られた者もいました。

どちらにしても、明に連れていかれたら、生きて朝鮮に戻ることはできません。
7人の貢女は、それぞれが悲しみに打ちひしがれながら国を離れることになりました。

さて、その7人の貢女ですが、どんな女性たちだったのでしょうか?
それぞれが妃としての名前もあり、僅かながらエピソードも残っています。

恭献賢妃権氏
婕妤呂氏
妃黄氏
康惠荘淑麗妃韓氏
順妃任氏
昭儀李氏
康靖荘和惠妃崔氏

恭献賢妃権氏

権氏は、朝鮮の有力貴族である権家の娘として生まれました(名は不明)
どうやら、権氏は兄の出世のために貢女になるよう仕向けられたようです。

貢女として選抜された時は18歳。
美人で頭もよく、歌舞にも秀でていました。

権氏は、永楽帝が恋焦がれていた徐妙錦※にとても似ていたこともあって、永楽帝に深く寵愛されました。
※徐妙錦・・・亡き皇后徐氏の妹。皇后が亡くなって傷心中の永楽帝は、徐妙錦を後添いに求めていましたが、姉妹を同じ夫に嫁がせるのは礼に反するとして、徐家に拒否されています。

▽永楽帝の皇后・徐氏(建国の功臣 徐達の四女)

永楽帝の権氏に対する寵愛ぶりは激しく、皇后亡き後の後宮の管理を任せるほどでした。
また、片時も権氏と離れたくなかったためか、北元征伐の際にも従軍させています。

しかし、1410年。
戦いに勝利して北京へ戻る途中で、権氏は突然亡くなってしまいました。

この時わずか19歳でした。
突然の寵姫の死は、永楽帝の心に決して癒されない傷を残しました。

「権妃が生きていた時は、出された料理はすべてが美味しかった。今ではもう食事も酒も何も上手いとも感じない」

絶望に打ちひしがれる永楽帝は、権氏は誰かに殺されたのではないかと疑いをもちます。
この権氏の死が、他の貢女たちにとっても悲劇の始まりとなってしまいました。

婕妤呂氏

呂氏も朝鮮の貴族呂家の出身です(名は不明)

貢女として選抜された時は17歳。
しかし、呂氏は永楽帝の寵愛を受けることができませんでした。
※のちに、使者が朝鮮の王宮に出向いた際に、「彼女は唇が分厚く、額も狭くて魅力がない。貢女にしたのは誤りであった」などど、容姿についてひどい言い方をしています。

1410年に、永楽帝の寵愛していた権氏が突然死ぬと、疑惑は呂氏に向けられました。

呂氏は、永楽帝の寵愛を一身に受ける権氏に嫉妬しており、たびたび権氏に無礼な態度をとったりしていたため、真っ先に毒殺の犯人ではないかと疑われたのです。
また、権氏の宮女が呂氏の宮女と喧嘩をした際に、「貴方の主人が、私の主人を殺したのよ!」
と言ったことも、呂氏が犯人ではないかと疑われる要因になってしまったのです。

そして、呂氏とお付きの宮女たちは苛酷な拷問を受けました。


拷問に耐えきれなくなった宮女のうちの1人がついに、
「私たちの主人が胡桃茶にヒ素を入れて、権氏を殺しました」
と自供しました。

その言葉を聞いた永楽帝は激怒。
真偽を確かめようともせずに、呂氏のお付きの宮女や宦官を処刑してしまいました。

当然、犯人を決めつけられた呂氏もタダではすみません。
1413年。呂氏は、熱した鉄棒で烙印をつけられ、残忍な方法で殺されてしまいました。

わずか20年の生涯でした。

妃黄氏

黄氏は美貌が群を抜いているという理由で貢女に選抜されました(名及び年齢は不明)

ただし、彼女は貢女に選ばれたことをとても嫌がりました。
責任者の宦官から叱責を受けて、無理やり連れていかれたといわれています。

ある日、永楽帝が黄氏に一夜をともにしようとしたところ、重大な秘密が明らかになりました。
実は黄氏は処女ではなかったばかりか、堕胎した形跡があったのです。

問い詰められた黄氏は、朝鮮にいる義兄と隣の家に住む奴隷と密通をしていたと告白。

当然、永楽帝は激怒し、黄氏を処刑しようとしました。
しかし、同じ貢女である韓氏が必死に哀れみを願ったため、黄氏は死を免れることができました。

しかし、1421年。
後述する呂魚の案事件に巻き込まれた黄氏は、必死の弁明もむなしく斬首されてしまいました。

年齢は不明ながら、20歳前後だったと言われています。

康惠荘淑麗妃韓氏

韓氏も容姿が美しいという理由で、貢女に選抜された1人でした(名及び年齢は不明)

上述の呂氏が、密通の罪で処刑されそうになったところを助けたのが韓氏でした。
しかし、永楽帝は韓氏自身が黄氏に罰を与えるよう厳命したため、韓氏は、思い切り激しく呂氏の頬を張ったといわれています。

そんな韓氏も、1421年に起きた呂魚の案事件に巻き込まれました。
飲食もできずに、冷たい部屋に監禁され、餓死寸前だったところを、哀れに思った宦官が密かに食事を提供してくれた、韓氏は死を免れることができました。

しかし、1424年。
永楽帝が亡くなると、当時の殉葬の習慣で、韓氏も生きたまま永楽帝の墓に埋められることになってしまいました。

韓氏は、「朝鮮にいる老いた父母の世話をさせて欲しい」と哀願しますが、聞き入れられないまま、無惨にも首を締めまれて殺されてしまいました。

詳細な年齢は不明ですが、20歳前後だったようです。

昭儀李氏

李氏は貢女に選抜された時、18歳でした。

李氏も1421年に起きた呂魚の案事件に巻き込まれています。

上述の黄氏が、必死に弁明しているのを聞いていた李氏は静かにつぶやきました。
「ただ死ぬのを待つだけ。どうして今さら助けなど求めましょう?私は1人で死ぬだけです」
こうして、李氏も斬首されてしまいました。

わずか29歳の生涯でした。

順妃任氏

任氏は貢女に選抜された時、18歳でした。

「容貌は観音さまのように美しいが、表情がまったくなかった」と言われています。

任氏も1421年の呂魚の案事件に巻き込まれた1人です。

死の恐怖と拷問に耐えきれなかったのか、彼女は自ら首を吊って死んでしまいました。

わずか30歳の生涯でした。

康靖荘和惠妃崔氏

崔氏は貢女に選抜された時、まだ15歳でした。

一度は紫禁城の宮殿に入るも、病気のために南京の故宮で静養していたことが幸いして、崔氏は1421年の呂魚の案事件に巻き込まれずに済みました。

しかし、1424年に永楽帝が亡くなると、崔氏も他の妃たちと同じく殉死させられています。

わずか29歳の生涯でした。

永楽帝による後宮の大粛清

7人の貢女のうち、実に3人が呂魚の案という事件で亡くなっています。

この事件は、呂氏(前述の妃呂氏とは別人)という妃と、お付きの宮女である魚氏が宦官と密通しているのではないかと永楽帝が疑惑をもったことが発端でした。

しかし、事実の発覚を恐れたのか、取り調べる前に呂氏と魚氏は、首を吊って自殺しています。

「この密通疑惑には何か裏がある」
そう踏んだ永楽帝は、呂氏の付き人たちを激しい拷問にかけました。

すると拷問に耐えきれなくなった宮女のうちの1人が、

  • 「権氏を毒殺したのは、呂氏(前述した妃呂氏のこと)ではなく、我が主人の呂氏だった」
  • 「我が主人の呂氏と魚氏は、宦官と結託して陛下も毒殺しようとしていた」

と驚くべきことを次々と暴露したことから、事態は思わぬ方向に急展開します。

予想もしていなかった事実に永楽帝は怒り狂いました。
呂氏の関係者だけでなく、宮殿にいる宮女や宦官などをことごとく処刑するように命じました。

この事件だけで2800人※が殺されたといわれています。
※数については、誇張のおそれもあり。また、この出来事は朝鮮王朝実録という朝鮮史のみに書かれており、明史には一切記載がありません。

朝鮮の貢女たち3人も運悪く被害者となってしまったのです。

永楽帝の死による殉死

権氏の死や自身の暗殺未遂で荒んでいた永楽帝も1421年に病にかかり死去します。

暴君が死んで後宮に平和が訪れるかと思いきや、永楽帝の妃たちに殉死するようにとの命令が下されました。
明朝初期は、皇帝が死ぬとその妃たちも殉死させられるという習慣がまだ残っていたのです。
※実際に殉死の習慣がなくなったのは、孫の正統帝の代になってから。

呂魚の案事件を生き延びた残りの2人の貢女たちも、殉死を免れることはできませんでいた。

まとめ

結果として、永楽帝に献上された7人の貢女たちは、全員が30歳を越えて生きることはできませんでした。
家族から引き離されて朝鮮から明に献上されたのに、無実の罪で若くして死んでいった彼女たちはとても哀れです。

永楽帝といえば、武勇に優れた名君というイメージばかりが先行します。
しかし、一方で彼の残虐な性格により、悲劇の最後を迎えた朝鮮の貢女たちがいたことも忘れてはいけないのではないでしょうか?

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