中国暴君列伝②~「豚王」とよばれた南朝宋の明帝~

魏晋南北朝

南北朝、とくに宋と斉は創始者以外は、だいだい暴君か暗君の歴史です。

今日紹介する宋の第7代明帝は、「豚王」と見下されながらもしぶとく生き残って皇帝に即位し、兄弟や甥を殺し尽くした暴君として有名です。

名君の息子として生まれる

明帝の本名は、劉彧といい字は休炳といいました。

439年に、名君として有名な宋の3代皇帝である文帝の第11子として誕生します。
文帝は非常に子だくさんで男だけでも19人、男女合わせて30人もの子供がいました。

そのため、 劉彧が跡継ぎになる可能性はありえない、はずでした。

しかし、453年に宋の命運を揺るがすような大事件が起こります。
なんと皇太子である劉劭が、父親の文帝を逆恨みして殺してしまったのです。

どんな事情があれ、父殺しは死刑に相当する大罪です。

各地で反発の声があがる中、第3子である劉駿が真っ先に挙兵。
劉劭を殺して父の仇を討ち、第5代孝武帝として即位することになりました。

しかし、本来皇帝になるはずのなかった劉駿の即位に対して多くの皇族や将軍たちが反対し、各地で反乱が相次いだため、孝武帝は討伐にかかりっきりになります。

そして、自然と自分の兄弟にも疑いをもつようになりました。

なにせ19人もの兄弟がいるのです。
いつ自分の統治に不満をもつ部下が兄弟を推戴して反乱を起こすかわかったものではありません。

この孝武帝の統治下で、9人もの兄弟が孝武帝によって殺されるか早世しています。
※いくら早死にする人が多い時代でも、5人が30歳手前で死んでるので暗殺の可能性大。

劉彧もいつ疑われて殺されるか気が気でありません。

ただ、孝武帝の母である皇太后(路恵男)に幼いころから可愛がられていたこともあり、奇跡的にこの粛清の難を逃れることができました。

暴君・前廃帝による壮絶なイジメ

464年に孝武帝が死去すると、皇太子の劉子業が即位(前廃帝)します。

すると、孝武帝の時代以上に辛い生活が待ち受けていました。

この前廃帝はかなりヤバい暴君でした。

▽中国ドラマ「鳳囚凰」より

▽前廃帝の蛮行についてはこちらで記事にしています。
中国畜生皇帝列伝~南朝宋の前廃帝と後廃帝~

わずか15歳の少年皇帝は、太っていた三人の叔父たちにそれぞれ「豚王」「殺王」「賊王」と名付けて、彼らを竹籠に入れるなど動物扱いをしていました。

なかでも「豚王」と名付けた劉彧は一番嫌われており、完全に家畜扱いだったようです。

・穴を掘って泥水を貯め込み、その中に投げ込んで泥まみれにする
▽中国ドラマ「鳳囚凰」より
・四つん這いにさせて、草と残飯を入れた桶に口から直接、豚のように食べさせる
▽中国ドラマ「鳳囚凰」より
・全裸にさせて、竹の棒で全身を殴打して見せ物にする

およそ、叔父に対する仕打ちとは思えないような陰湿なイジメの数々。

前廃帝がお気に入りの妃が産んだ子を皇太子にしようとして劉彧が反対した時も、「今日こそ、この豚を屠殺してくれる!」と激怒して殺そうとしたほど。

しかし、「殺王」と呼ばれて同じくイジメられていた弟の劉休仁がとっさに返事をしました。
「まだこの豚を殺すべきではありません。皇太子さまがご誕生したときに、この豚の肺と肝を切り取って捧げましょう」
この機転をきかせた進言で前廃帝の怒りは収まり、劉彧は死を免れることができました。

この前廃帝のイジメをうけた劉彧の屈辱と恐怖は計り知れないものだったと思われます。

そして、465年に前廃帝が前述の三人の王を殺そうと計画していることを事前に察知した「豚王」こと劉彧は、先手を打ち暗殺を決意。

華林園というハーレムで、宮中の妃たちと鬼ごっこをしている最中だった前廃帝に、刺客を近づけて刺し殺したのです。

▽中国ドラマ「鳳囚凰」より。メッタ刺しにされる前廃帝

皇族たちへの苛烈な粛清

こうして前廃帝を殺した「豚王」こと劉彧は、第7代明帝として即位します。

▽中国ドラマ「鳳囚凰」より

しかし、バカにしていた「豚王」が即位して自分たちの主君になることに我慢ができなかった他の皇族や将軍たちは猛反発。

特に、前廃帝の弟たち(孝武帝も子だくさんであり、早世も含めて28人もの男子がいた)は、一番上の兄である劉子勛の即位こそが正当だと主張。

劉子勛を支持する孝武帝の子たちと、劉彧を支持する文帝の子たちという対立になりました。

最終的に、劉子勛の反乱は鎮圧されますが、元来穏やかな明帝は、反乱に加担した将軍や部下たちの多くを許して咎めませんでした。

しかし、皇族たちに対する処罰は非情なものでした。
なんと、劉子勛を含めた甥の皇族たち28人(早世や前廃帝に殺された二人も含む)全員を処刑。

序列でいえば孝武帝の子が正当な後継者と言われかねないためでした。

また、兄弟で生き残っている4名(他14名はすでに死亡)も、皇太子の劉昱(のちの後廃帝)を脅かす存在という理由で全員処刑。

親族間で殺し合いがつづき、常に命の危険にさらされていた明帝は、親族を全く信用することができなくなっていました。

いつか殺されるかわからない。

そんな恐怖の中で過ごした明帝が親族に疑心暗鬼になるのもわかるような気もします。

明帝は性的不能者だった?

明帝も他の皇帝と同じく、たくさんの子供をつくりました。

▽中国ドラマ「鳳囚凰」より

しかし、実は明帝は性的不能者であったのではないかと当時から噂があったのです。

そのため、部下や生き残った皇族に子供が生まれると、その子を取り上げて生母を殺し、自分の妻妾に実の子供として育てさせていたのが真相のようです。

明帝には皇太子も含めて12人の子がいましたが、歴史書でも12人とも別人の子ではないかと言及しています。

※皇太子である劉昱(のちの後廃帝)も、冗談なのか本気なのか、自分は李道児という者の子供で李統が本名であると普段から言っていたそうです。

まとめ

南朝宋は狂った皇帝が多い時代ですが、この明帝はまだマシなほうでした。

しかし、何十人もの皇族を殺し尽くす残虐さは、息子の後廃帝にもしっかりと受け継がれていきました。
前廃帝・明帝・後廃帝。
三代にわたり暴君が続いた結果、宋の屋台骨はガタガタとなり、滅亡に至ります。

▽後廃帝の蛮行についてもこちらで記事にしています。
中国畜生皇帝列伝~南朝宋の前廃帝と後廃帝~

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