優れた武闘派皇帝たち

通史

中国の歴史上、何百人もの皇帝が存在しました。

ただ、武力に優れた皇帝って、ぱっとイメージできないような気もします。
私自身、あまりイメージが湧きません。

日本史上だと、統治者は武士の頭領である将軍というのもあって、けっこう想像できます。
源頼朝も足利尊氏も徳川家康も皆、侍大将だけあって武のイメージ強いですよね。

個人の武勇でみても、足利義輝は、剣豪将軍として有名ですし、徳川家康も、奥山流剣術の達人でした。

でも、中国の皇帝となると、明君(唐の太宗や清の康熙帝など)・暗君(蜀の劉禅や明の万暦帝など)としては有名でも、武勇で有名な者はあまり聞いたことがありません。

今日は、歴代皇帝で武勇に秀でた者がいなかったのか調べてみました。

秦の武王

戦国時代の秦の第27代君主である秦の武王。


強力な軍隊を率いて秦の領土拡大に功を挙げた優れた皇帝でした。

そして武王は、周囲の者も舌を巻くほどの怪力の持ち主だったと言われています。
自らの近衛兵も、腕力が強い者たちを集めたり、力試しをするのが好きだったようです。

ある日、お気に入りの孟賁※という力自慢の勇士と、力試しを行いました。
その内容は、鼎を持ち上げる勝負をするというもの。
※孟賁は、生きた牛の角を引き抜くほどの怪力の持ち主といわれていました。

持前の怪力で鼎を持ち上げようとする武王。

ただ、巨大な鉄製の鼎は到底一人で持ち上げられるレベルではありませんでした。
武王は、耐えきれずに脛骨を折って出血多量で亡くなってしまったといいます。

後漢の光武帝 劉秀

後漢の開祖である光武帝 劉秀は、明君として有名です。

しかし、劉秀は武人としても優れていました。

劉秀の体格は中の上ぐらい。
性格も穏やかで、戦慣れした猛者たちが集まる軍団にあって、とりたてて目立つほうではありませんでした。

しかし、いざ戦闘となると雰囲気は一変。
自ら武器をもって最前線にたち、勇猛果敢に戦ったと伝わっています。

また、冷静沈着で抜群の戦術眼をもっていた劉秀は、前漢の名臣である蕭何・張良・韓信の三人を合わせたような能力の持ち主とも言われていました。

後漢建国時も彼らのような優秀な部下がいたと思いますが、あまり有名ではありません。
劉秀個人の能力が高すぎて、万事1人で解決できてしまったからとも言われています。

この劉秀に率いられた軍の士気も上昇。

皇帝位を簒奪した王莽の建てた新を滅ぼし、漢(後漢)を復興させることに成立しました。

蜀漢の昭列帝 劉備

三國志で超有名な劉備も、武芸に通じていました。

「双股剣」という二振りの剣を愛用し、幾多の戦場で先陣をきって活躍。

関羽・趙飛と三人で呂布と渡り合ったことはあまりにも有名です。

ただし、この話は三國志演義で出てくるエピソードなので、真実は不明ですが、正史でも劉備は狩りや武術を好んだと書かれているので、戦場でも前線で勇猛果敢に戦っていたのかもしれませんね。

南朝宋の武帝 劉裕

貧しい生まれから成り上がり、とうとう皇帝まで昇りつめた劉裕。

歴史書には、多くの戦場で劉裕が先陣で武器を持って戦っていたことが書かれています。

彼は少数の兵で奇襲をかけて大軍を蹴散らしたり、伏兵を配置するなど兵法にも通じていましたが、常に前線で刀をもって敵兵を切り殺す活躍をみせたと言われています。

数十人の寡兵で、数千人の敵兵の包囲から逃れたエピソードから、「一人で数千人を殺す活躍」をみせたともいわれる劉裕。


多少、誇張があるにせよ彼が、ずば抜けた武勇の持ち主であったことは間違いないようです。

北斉の文宣帝 高洋

このブログでも紹介した、サイコパス皇帝である北斉の文宣帝 高洋。

あまりに残虐なエピソードが多いため、暴君のイメージしかない彼ですが、非常に優秀な武将でもありました。

隣国の北周や北の遊牧民族と戦闘では、矢が雨のように降る最前線でも、自ら剣をふるって突っ込み、敵兵を斬って捨てたといわれています。

この高洋のあまりの迫力に敵軍は恐怖にかられ、威名は天下に轟いたようです。
外征の成功により、北斉は文宣帝の時代に最盛期を迎えることになりました。

まぁ、後年の残虐エピソードの数々からすると、単に血なまぐさいことが好きだっただけでは?という疑惑もあるんですけどね。

唐の太宗 李世民

中国でも一二を争う明君として有名な唐の太宗 李世民。

父である李淵が、唐を建国できたのも、息子の李世民が優秀な武将とともに戦場で槍働きをしたことが非常に大きいです。
李世民自身も、騎射が得意で、強弓で並みいる敵兵を射倒したといわれています。

少林寺の十三人の僧とともに、敵兵を撃退したなどのエピソードも有名ですね。

「独眼竜」晋王 李克用

後晋の開祖、李存勗の父であり、後梁の開祖、朱全忠のライバルでもある李克用。

彼は、腕力と弓術に優れた猛将でした。
片方の目が小さく、その威容から「独眼竜」と称されています。

唐に対して大規模な反乱を起こした黄巣の軍を完膚なきまでに叩きのめす活躍をしています。

李克用率いる全身黒づくめの軍団は「鴉軍」といわれ、この姿をみただけで敵兵は震えあがり、戦わずして戦場から逃げ出したようです。

高洋や李世民もそうですが、北方民族を先祖にもつ武将は、武勇に優れた猛者が多いですね。

ただし、李克用自身は、武勇に優れても政治力や駆け引きは苦手だったようです。
ライバルの朱全忠に出し抜かれて、中原を支配することはできませんでした。

宋の太祖 趙匡胤

宋の開祖である太祖 趙匡胤。

文治主義を推し進めたイメージの強い彼ですが、実は、功夫に優れた武術家でもありました。

若いときは読書が大の苦手で武術の練習ばかりしていました。
成長すると、家を出て江湖に入り、当時の有名な武術家たちに師事して武術の奥義を学んだといわれています。

その後、家に戻り、後周の将軍として軍隊を率いるようになると、戦いの合間で自ら研鑽した武術をベースに「太祖三十二勢長拳」という拳法を編み出しています。

趙匡胤はこの太祖三十二勢長拳を兵士たちに訓練させました。
その結果、後周軍は無敗の常勝軍となり、周囲の諸国を次々と攻略することに成功します。

この太祖三十二勢長拳は基本動作がわかりやすく的確であったので、数多くの流派のルーツにもなっているようです。
現代でも、少林寺の武術の一つとして残されています。

▽「太祖長拳」の実演動画

少林太祖长拳 Shaolin Tai Zu Chang Quan.

趙匡胤は拳法だけでなく、棍術にも優れていました。
彼が使用していた棍は、途中で二つに折れた形状をしており「太祖盤龍棍」と呼ばれるようになりました。

▽太祖盤龍棍の実演

Shaolin Pan Long Gun 盘龙棍

振り回すことに適したこの盤龍棍を使った棍術を趙匡胤は兵士たちに指導しました。
もともとは、敵騎馬の足を叩き折るために作られたようです。

ただ、趙匡胤自身は歳をとると、武術よりも学問に夢中になりました。
戦場でも馬上で読書をしたり、皇帝になっても片時も書物を手放すことはなかったようです。

その気風を引き継いだ宋は、史上まれにみる「文治国家」となりました。
ある意味、趙匡胤こそが真の文武両道皇帝なのかもしれません。

明の永楽帝 朱棣

靖難の変を起こして、帝位を簒奪し皇帝となった永楽帝 朱棣。

彼ほど戦闘のさなか、前線で戦った皇帝は明代では先にも後にもいません。
※洪武帝 朱元璋は自ら戦場にでるより優秀な部下を率いていた面も多いので割愛。

永楽帝は、生涯で100以上の戦いをしたといわれています。

北方のモンゴルから南方のベトナムまで、自ら軍隊を束ねて出陣して明帝国最大の領土を築きました。

まとめ

こうやって調べてみると、武勇に優れた皇帝は、王朝の開祖に多い気がします。
いったん国を建てて平和な時代が続けば、皇帝自ら戦う必要はないですしね。

でも、宋の太祖 趙匡胤を除いて個人の武芸に秀でた皇帝がいない(もしくはエピソードがない)のは、意外でした。
やっぱり中国では歴史上、武よりも文を重視してきたことが影響しているのかもしれません。

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