家族を皆殺しにされた李陵~キングダムの信の子孫として2~

前漢・後漢

前回に引き続き、キングダム信の子孫を紹介します。

信の子孫って、意外と歴史に名が残る有名人が多いんですよね。

今回は、悲運の人生を歩んだ李陵を紹介します!

飛将軍、李広の孫として

李陵は、漢3代の皇帝に仕えた飛将軍、李広の孫として生まれました。

李陵の父は李當戸といって、李広の長男で父譲りの豪傑だったのですが早死してしまいました。

また伯父の李敢も名将霍去病の下で軍功を重ねており、李家が漢でも指折りの軍人一家でした。

そのため、李陵も若い時から自然と宮中で武官としてのキャリアをスタートしました。

李陵は弓術を善くする、武芸に長けた勇敢な者でした。また、兵卒をいつくしみ、誠実で高潔な雰囲気は祖父の李広にそっくりだったようです。

「さすが李広の孫だけある」

そう武帝が感嘆するほどの勇敢さと度量を李陵もまた併せ持っていたのです。

李広について知りたい方は、こちらもどうぞ。

飛将軍と呼ばれた猛将 李広~キングダム信の子孫として1~

順調なキャリアアップ

李陵は厳しい軍事教練で統制のとれた軍隊を作り出したり、わずか800の騎兵で匈奴の奥深くまで侵入して偵察業務を敢行するなど武帝にその有能ぶりを評価されていきます。

そして、楚人5000人を集めて、当時未開の地であったシルクロード沿いの酒泉や張液といった要所に駐屯して敵に備えるよう命令されました。

酒泉や張液などは大苑などの外敵から侵攻を受けやすい第一線の戦場であり、いかに武帝に能力を買われていたのかがわかります。

この辺境の地で李陵は10年以上も過ごすことになったのです。

匈奴との戦に必死で志願

当時、匈奴は長年続く漢との戦で国が疲弊していたため、漢と和議を結ぼうと思っていました。

そこで、漢も蘇武という人物を使者として匈奴に派遣しました。

しかし、匈奴の内部で謀反が起こりました。

陰謀に加担したとの疑惑から、蘇武は捉えられて和議は反故にされてしまいました。
※蘇武の話は、記事の後半で書いています。

当然、武帝は激怒します。

李広利という武将を大将にして匈奴討伐に向かわせると同時に、李陵に対しても李広利の補給部隊として後援にまわるように命令しました。

しかし、剛直な李陵はこれに反対し、「私自らが鍛えた5千の精鋭を率いて、匈奴を李広利将軍ととに攻撃し、ぜひとも殲滅してご覧にいれます」と武帝に出兵を願いました。

武帝は李陵の願いにずうずうしいと感じ、「匈奴攻撃に必要な駿馬はすべて李広利将軍に預けることになっている。それでも匈奴と戦えるというのか」と李陵に詰め寄りました。

それに対し李陵も負けじと「我が精鋭5千の兵は馬などなくても、戈と盾、それに弩があれば匈奴と戦うことが可能です。ぜひとも打ち破って見せます」と豪語しました。

その勇敢な言葉に最初は経験の浅い李陵に任せることを渋っていた武帝も、とうとう李陵の進撃を認めたのです。

匈奴との死闘〜苦渋の捕虜

こうして李陵は5千の歩兵を率いて李広利軍との共闘をすることになりました。

しかし、李広利軍と合流する前に、匈奴の単于(国王のこと)率いる三万の軍勢に見つかってしまったため、李陵は僅か五千の歩兵で戦闘を開始することになります。

この時、李陵は前線に戈と盾を持った兵士を並ばせて匈奴兵の攻撃を防ぎつつ、後方から連弩で攻撃をする戦法をとりました。

敵兵が騎兵突撃をすれば連弩で一斉射撃を行い、ひるんだ敵兵が退却すれば前線の兵士が戈で突撃するという戦いを繰り返し、合計で一万人弱の敵兵を打ち取ったと言われています。

また、この功績を武帝に報告するため、部下を首都である長安に遣わせました。

獅子奮迅の働きで敵兵の攻撃を退いていた李陵軍でしたが、ここで思わぬ誤算が生じました。

3万の軍勢がわずか5千の敵兵さえも撃破できないという焦りから、頭領である単于が匈奴軍の総力を結集させ、なんと8万もの大軍に膨れ上がったのです。

さしもの李陵軍も、圧倒的な大軍の連続攻撃に休むこともできず、疲労にもたまり始めました。

また、匈奴に降伏した部下が、李陵軍が疲弊していることや漢の援軍の見込みがないことを匈奴軍に密告したため、余計に匈奴の士気が高まって猛攻を受けるという不運も重なりました。

しまいには、戦う武器もなくなりました。

兵士は車輪を分解して尖った木材の部分を剣代わりにするという有り様。

追い詰められていた李陵軍でしたが、匈奴に退路を断たれてしまったため、ついに8日間の攻防の末に李陵は降伏することになりました。

このとき、戦場から離れて漢の地に帰ることができた李陵軍の兵士はわずか400人程度だったと言われています。

武帝の激怒と、司馬遷の弁護

李陵が匈奴の捕虜になったという報を受け、武帝は激怒しました。

武帝は領土拡大に野心を燃やす覇気のある皇帝でしたが、同時に部下の失態やミスに対して非常に厳しい、ワンマンかつパワハラ皇帝でもありました。

李陵に厳罰を下そうと息巻いている武帝に少しでも反対すれば、いつ自分の首がとぶかわかりません。そのため、李陵を弁護する者がいないなか、『史記』の作者である司馬遷のみが李陵の勇敢さを誉めて無実を訴えます。

「李陵将軍は勇敢でありこのたびの戦いでも敵兵1万人を打ち取る豪勇ぶりを見せております。
やむなく捕らわれたとはいえ、たった一度の過ちで処罰するには惜しい人物です。
この安全な宮中で批判ばかりしている者たちに比べて何と不公平な境遇でしょう。
李陵将軍を許して、失態を補う寛大な処置をすべきです」

その言葉を聞いた武帝は怒り狂いました。

「朕はそのような意見は聞きたくない。お前のその言葉は、大将であった李広利将軍を誹るものである」と言って、司馬遷に宮刑(強制的に去勢させて宦官にさせる刑)を命じてしまいました。

こうして漢に帰る手段を失った李陵でしたが、匈奴の単于にはその勇猛さと能力を買われて帰順を勧められます。

しかし、李陵はあくまで漢に忠誠を尽くす決意でした。

単于の勧誘をあくまで拒否しつづけたのです。

冤罪による家族の処刑

その後、怒りの治まった武帝は、やはり李陵をこのまま匈奴に残すのは惜しいと判断して、公孫敖という将軍に李陵を迎えに行くように命令します。
しかし、一度悪い流れになってしまうと止まらないものです。

公孫敖は、ある匈奴の捕虜から、「李将軍」という人物が密かに漢の軍略を匈奴に教えているとの話をききつけました。そして、李将軍という人物が誰なのか確認もせず、そっくりそのままの言葉を武帝に報告してしまいました。

そして「李将軍」=李陵だと思い込んだ武帝はまたもや怒り狂いました。

妻子だけでなく母や祖母、兄家族や従妹家族まで李陵の一族全員を皆殺しにしてしまったのです。

しかし、実はこの「李将軍」とは李陵より前に匈奴に投降した李緒という人物であり、まったくの冤罪というべきものでした。

無実の罪で家族全員を皆殺しにされてしまった李陵は嘆き悲しみました。

せっかく忠誠を尽くしてきたのに、よく調べもしない情報で家族を皆殺しにした武帝に対する怒りや絶望もあったんでしょう。

自分を誤解されるきっかけとなった李緒を殺害して、李陵はとうとう匈奴に帰順をする決意をしました。

匈奴の右校王として生きる

匈奴に帰順した李陵は、右校王という王に任ぜられるほど、匈奴の単于に厚く信頼されました。

帰順後の李陵は匈奴の将軍として漢との戦いに従軍しただけでなく、匈奴の政治や重要事項の決議にも参加していたことが史料からもわかっています。

そんな彼も、一度だけ漢に戻れるチャンスがありました。

紀元前86年に武帝が亡くなり、昭帝が即位すると漢の宮廷の風向きも変わってきました。

もともと、強引な対外拡張政策は武帝一代の政策であり、戦争における武将のわずかな失態も許さない風潮も、武帝個人の判断によるところが大きかったのです。

また、当時の権力者であった上官桀と霍光は以前から李陵と親交があったため、なんとかして李陵を匈奴から連れ戻したいと考えていました。

そこで、李陵と同郷である任立政を使者として匈奴に派遣します。

匈奴の単于は快く使者を出迎えて宴会を催しますが、任立政はなかなか李陵と二人きりで話し合う機会に恵まれませんでした。

そこで任立政は、わざと自分の帯剣の柄を叩いたり、脚を広げたりして李陵が気付くようにアピールをしました。

それに気づいた李陵は、後日、同じく漢からの帰順者である衛律と任立政の三人で個別に宴会を行いました。

宴会で楽しく飲んでいる最中、任立政は立ち上がり急に叫び始めました。

「漢朝はすでに投降した者をお赦しになられている。中原は安寧であり、皇帝陛下はまだ幼い。支えているのは上官桀と霍光である!」

要は、李陵を許しているので漢に戻れるぞという意味だったのです。

それを聞いた李陵は心を動かされますが、しばらく黙った後に頭を撫でながらこう言いました。

「私は頭もこのとおり、匈奴風の髪型にしてしまったし、もはや完全な匈奴人だよ」

※匈奴の人たちは髷を結っておらず、辮髪でした。

そして衛律がトイレに行った隙を見計らって再度、任立政が李陵に漢に戻るよう呼び掛けても

「大丈夫たるもの、二度も屈辱を受けるわけにはいかない」

と言って、漢に戻る意思がないことをはっきり伝えたのです。

こうして、李陵は自らの意志で漢に戻らずに匈奴に骨を埋める決意をしたのでした。

匈奴への帰順から20年以上が経過した紀元前74年、李陵は病死しました。

李陵と蘇武

こうして李陵は漢に戻らず匈奴で生涯を終えることになりました。

しかし、反面、最後まで漢に忠義を尽くし最後には漢に戻った蘇武という者がいました。

蘇武は、李陵が匈奴に敗北して捕らわれる前の紀元前100年に、匈奴との講和の使者として出向いた際に、匈奴内の謀反の計画に加担していたと誤解され、捕らわれの身となっていました。

単于からの匈奴への帰順を断り続けたため、バイカル湖のほとりに強制的に収用された蘇武は、食べるものも与えられずに雪や草をかじって耐え忍び、漢朝への忠義を尽くしていましたのです。

匈奴に捕らわれてから10数年が経過した後、帰順した李陵が蘇武のもとに出向いて、宴会を催し彼に投降を呼びかけました。

「蘇武よ。君はなぜそこまでして漢に忠義を尽くすのだ?
君の二人の兄弟(兄の蘇嘉と弟の蘇賢)は不幸にも自殺しており、もうこの世にはいない。
君の母君もすでに亡くなっており、妻子は年若かったので他人の嫁になったと聞いているよ。
人生は朝露のごとく短いという。
どうしてそんなに自分を苦しめるようなことをするんだ?
漢の皇帝陛下はかなりのお歳であり、正しい判断ができずに厳しい処罰をしていて、多くの大臣や官僚たちが無実の罪で家族ごと皆殺しにされている。
君がもし漢に幸運にも戻れたとしても、安全に生活できる保障がどこにあるというんだ?

私も匈奴の捕虜になった時は、漢朝を裏切った自分自身を許せなく感じた。
しかし、家族を皆殺しにされて絶望していた私を助け、評価してくれたのは匈奴の単于様だ。
単于様は蘇武、君のことを高く評価しているからこそ、私を君のもとに遣わせたんだ。
これからの意義ある人生を匈奴の地で歩んでみないか?」

李陵のこの言葉を聞いた蘇武はしばらく黙ったのち、こう答えました。

「私の一族は先祖代々、漢朝から多大な恩義を受けており、国の為に忠義を尽くすことは当たり前と思い、生きてきました。兄弟たちが漢朝のために身を捧げて死んだのならそれは私が漢に尽くしたと同じこと。なにも悔しくなどありません。
右校王(李陵のこと)。もしそれでも私を強引に帰順させようとするならばすぐにこの宴会をやめましょう。そしてあなたの前で死んでみせます。」

李陵は蘇武の漢に対する強い忠誠心に感動し、こういって引き下がるしかありませんでした。

「あぁ、私は漢に対してなんという大罪を犯してしまったのか!」

その後、武帝が亡くなったと噂で伝え聞いたときも、蘇武は嘆き悲しみ、漢の方角に向かって哭礼したといいます。

武帝が亡くなったころ、匈奴では単于が亡くなり親族間で後継者をめぐる内紛が起きていました。

匈奴は内紛に乗じ漢が侵攻してくることを恐れ、蘇武を釈放することで和議を結ぼうとしました。

漢の宮廷でも蘇武が生きているという情報が伝わったため、19年もの拘留生活を経て蘇武はようやく帰国をすることができました。

このとき、李陵は蘇武のために盛大な別れの宴会を催し、泣いて蘇武の帰国をこう伝えました。

「もし先代の陛下(武帝)が私の家族を皆殺しにしなければ、私は漢に忠義を尽くして曹沫や荊軻のように単于に一矢報いただろう!
なのに陛下は私に最も苛烈な処罰を下された。
もはや漢に未練はない。
蘇武よ。君は幸いにも漢の地に戻ることになったが、もし戻っても私を漢に連れ戻すような働きかけはしないで欲しい。私はもう匈奴の人間だ。
これから私と君は異国の人同士だ。これが今生の別れになるだろう」

▽李陵と蘇武の別れ

蘇武も李陵の悲壮な決意を聞いて、涙を流したと言われています。

そうして蘇武が漢に帰国した後、李陵と蘇武は二度と会うことはありませんでした。

最後に

僅か5千の兵で匈奴の大軍相手に獅子奮迅の働きをしたのに、たった一度捕虜となっただけで武帝に家族を皆殺しにされ、絶望して匈奴に帰順せざるをえなかった李陵。

いわれのない謀反計画で匈奴に拘留され続け、家族が離散するも武帝の死後に漢に帰国できた蘇武。

蘇武の忠義が厚かったといってしまえばそれまでですが、二人とも武帝という暴君の身勝手さで人生を大きく狂わされました。

中国史上において、李陵ほど上司に報われない武将も珍しいんじゃないのかなとも思いますね。

 

 

 

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