反乱の指導者といえば、だいたいが男です。
カリスマ的なリーダーシップで反乱軍をまとめ上げ、時の王朝を打倒して君主に即位。
その繰り返しでした。
しかし、清末期には女の反乱指導者も登場しました。
彼女たちは前線で自ら武器を持って戦い、多くの伝説的なエピソードを残しています。
今日は、そんな反乱軍を率いた3人の女将軍を紹介します!
白蓮教徒の乱〜王聡
王聡児は白蓮教徒の乱における女指導者です。
白蓮教とは?
そもそも、白蓮教とは何か?
ざっくりいうと・・・
・弥勒菩薩が降臨する前に、汚いもの(腐敗した官僚や政治)を浄化しなきゃいけない。
・そのためには皆が力を合わせて挙兵して清朝をぶっ潰そう!
という考えの宗教でした。
じゃあ、なんでそこまで過激な思想の宗教が普及したかというと・・・
・腐敗官僚の厳しい税の取り立てにより、民衆が生死のレベルまで追いつめられる。
・絶望した民衆はヤケクソになって賊化するか流民化する。
こんな究極の状況なので、白蓮教はすんなりと受け入れられました。
「教えを守っていればおまんまが食える!俺らを苦しめた役人どもをぶっ殺せ!」
追い詰められた民の怒りとエネルギーは凄まじいものがあります。
白蓮教徒たちは四川省、陝西省、湖北省の各地で一斉に反乱を起こしたのです。
湖北の女武芸者
中でも、湖北で反乱した白蓮教徒を率いていたのが、王聡児という女性でした。
王聡児の生まれは貧しく、得意の雑技や武芸を披露して毎日の生活費を稼いでいました。
そんな彼女も、いつしか白蓮教の教えに惹かれて入信。
そして、湖北の白蓮教幹部であった斉林という男の妻となります。
ところが、斉林は清に密かにマークされていました。
「こいつはいつか反乱を起こす恐れがある。殺してしまえ!」
こうして斉林は朝廷のスパイによって捕縛、処刑されてしまいました。
妻であった王聡児は悩みます。
「このまま大人しく解散するか。いっそのこと反乱を起こすべきか」
しかし、役人たちの横暴さを肌で感じていた王聡児は彼らを許すことができませんでした。
王聡児が、斉林の志を継ぎ、湖北一帯の5万の白蓮教徒を率いる女頭領として反乱を起こしたのです。
清軍相手に連戦連勝
王聡児率いる白蓮教軍は、清軍相手に連戦連勝。
湖北、陝西、四川を舞台に暴れまわります。
占領した街の汚職官吏を殺し備蓄兵糧を飢民に開放することで、ますます人気を得た彼女の軍は最大で14.5万にまで膨れ上がりました。
王聡児の戦法は特殊でした。
清軍に真正面から戦わずに、狭い小道や山林から奇襲して戦うゲリラ戦法がメイン。
清朝はこの反乱を鎮圧するために数十万の軍隊を導入しましたが、結果的に20名ほどの官僚と400人前後の将官を失う大惨敗をしています。
清軍の正規兵(八旗・緑営)は、長い平和ですっかり堕落していました。
まともに戦いもせずに逃げ出す者が続出。
それに対して、王聴児率いる白蓮教軍の士気は高かったといわれています。
一度反乱すれば、もう立派な国賊です。
投降しても処刑されるのは目にみえてるため、必死になって戦いました。
また、死ねば弥勒菩薩のいる場所に行けるとの考えから恐怖心を捨てていたため、当初は白蓮教軍の連戦連勝だったのです。
山頂から無念の飛び降り
しかし、清は正規軍が役に立たないと判断すると、地方の地主と武装集団(団練)を組織させ個別に対応させるようにしました。
また、地域の住民のなかには、怪しい宗教団体に反発をもつ者も一定数いました。
彼らは白蓮教徒に食糧の提供をするのを防いだため、白蓮教軍の士気はだんだんと落ちていき各個撃破されていきます。
戦況が悪化するなか、王聡児率いる白蓮教軍も湖北省の芽山に追い詰められました。
「もはやこれまで。生きて辱めを受けるわけにはいかない!」
1798年。王聡児は山頂付近の崖から飛び降りて自害して果てました。
このとき、王聡児は僅か22歳だったといわれています。
その後
王聡児の自害後、白蓮教軍の勢いは急激に下火となっていき、1804年には鎮圧されます。
しかし、この白蓮教徒の乱は清朝にとんでもないダメージを与えました。
蘭の鎮圧に数十万の軍隊を導入して国家財政の5年分を戦いに費やしただけでなく、正規軍の弱体化と無能ぶりを露呈する結果になったのです。
ここから、清朝の衰退が目に見えて始まるようになっていきました。
小刀会のリーダー〜周秀英〜
周秀英は、上海小刀会の女指導者です。
白蓮教徒の乱で弱さをみせた清軍は、その後のアヘン戦争でイギリス軍にも大敗。
一気に衰退してきますが、まだまだ領土は維持されていました。
しかし、太平天国の乱が起きると状況は一変。
今まで反乱がおきなかった地域で民衆の武双蜂起が起きるようになります。
大刀で敵兵をなぎ倒す少女
上海でも不穏が空気が流れていました。
地元官僚が食糧徴発の対価を適切に支払わなかった不満から役所を焼き討ちする事件が起きます。
これを率いたのが周立春という小刀会(反清復明をスローガンとする秘密結社)です。
周立春には、非常に武術に秀でた18歳の娘がいました。
その名は、周秀英。
周秀英は大刀の使い手だったと言われています。
▽大刀
それに対して、蘇州から鎮圧のために千余名の軍隊が派遣されたのですが、周秀英率いる反乱軍の勢いに呑まれ撃退されています。
この戦いの折に、周秀英は四門刀という刀術で清兵数十人を斬ったという話が伝わっています。
わずか18歳の一人の女の子ですよ。
1人で数十人を殺すとか、メチャ強かったんでしょうね。
常に前線で大刀を振り回し敵を薙ぎ払う様は、当時上海租界にいた外国人記者から「まるで古代ギリシャ神話に出てくるアマゾネスのように勇猛果敢だ」と感嘆されるほどでした。
清軍に捕らえられ、凌遅刑に処される
その後、勢いに乗った反乱軍は上海各地を占領。
勢力は数万人に膨れ上がりました。
しかを本腰を入れて鎮圧に乗り出した清軍の前にあえなく敗退。
周立春は捕らえられ処刑されてしまいますが、周秀英はかろうじて逃れ、上海の他の頭目である劉麗川の勢力と合流しています。
彼女が率いる反乱軍は当時、勢力を拡大していた太平天国と合流しようと天京(今の南京)に使いを出します。
しかし、この連携は街道を清軍に封鎖されて太平天国軍に届かず成功しませんでした。
それでも反乱軍は16ヶ月もの間、上海で籠城戦を戦い抜きますが、清軍とヨーロッパの連合軍(租界の安全確保を条件に清朝に協力した)によって、1855年正月に敗れてしまいます。
周秀英も奮戦しますが、不幸にも乗っていた馬が敵と交戦中に躓き、倒れた瞬間を捕らえられてしまいます。
彼女は、反逆という重罪の判決により、最も過酷な刑罰である凌遅の刑で殺されてしまいました。このとき周秀英は僅かに19歳でした。
彼女と劉麗川の戦死により、小刀会の反乱は完全に鎮圧されることになったのです。
一説には、この小刀会のような秘密結社や、前述の白蓮教徒の残党が「義和団事件」を引き起こしたとも言われています。
▽義和団事件や姉妹分の紅燈照についての紹介記事です。
法術で軍隊に対抗しようとした仙女集団 紅燈照とは?
太平天国の乱~蘇三娘~
蘇三娘は、太平天国における女幹部です。
清朝道光帝の時代は、白蓮教徒の乱をきっかけとして、各地で蜂起や反乱が勃発した時代でした。蘇三娘もそんな蜂起した人物の1人です。
暗器の女名人
彼女の本名は楊玉娘。
天地会(反清復明を唱える秘密結社)に属する蘇三の妻だったため、蘇三娘と呼ばれました。
この蘇三娘は、幼少期から武術の修練をしており、その域は達人レベル。
特に打鏢(手裏剣のような暗器)の名人で、投げれば百発百中の腕前でした。
▽打鏢
夫の蘇三が清軍と戦う時は必ず従軍し、前線で勇敢に戦い、知恵を駆使して夫を何度も助けたと言われています。
しかし、蘇三は仲間の裏切りにあい射殺されてしまいます。
妻の蘇三娘は天地会本部から500ほどの勢力を借りて、見事に仇打ちを果たすことに成功。
名声が高まった彼女を慕う民衆が続々と集まり、蘇三娘は天地会の一大頭目となったため、政府から「女匪」として特に警戒されるようになります。
太平天国の女幹部として
天地会だけでは、清軍に真っ向から対抗できません。
そこで蘇三娘は、反乱を起こして急激に勢力を伸ばす太平天国軍に合流することになります。
蘇三娘の率いる太平軍は、桂林、長沙、武漢、南京など主要都市で戦い連戦連勝。
彼女は常に先陣に立ち、真っ先に敵陣に突入する戦働きをみせたので、部下からの信頼も篤く、よく慕われていたようです。
この時代、女性が戦う姿を見るのは珍しかったんでしょう。
敵であるはずの清の状元(科挙の主席合格者)出身の官僚、龍啓瑞は蘇三娘の勇姿を称える詩を作っています。
「幾百もの戦場を槍一本で駆け抜け、千万の敵にも立ち向かう。その姿をみた敵軍はネズミのように退散してしまうだろう亅
清からみれば蘇三娘は立派なテロリストです。
こんな誌を送ったのがバレたら処刑ものだと思うんですけどね。
実は蘇三娘は美貌で有名だったようですので、龍啓瑞からは戦場を駆け巡る戦女神のように思われていたのかもしれません。
その後、蘇三娘は太平天国の羅大鋼という武将と再婚。
夫婦で鎮江という都市を攻略した際に、蘇三娘は凄まじい戦働きをしています。
「蘇三娘は死を恐れずに先陣を突っ走り、1人で城壁によじ登り、あとに続く800人の女兵士とともに鎮江を攻略した」
太平天国には女性だけの軍隊も存在しました。
蘇三娘の活躍は、男女平等を唱える太平天国の宣伝材料にもなっていたのかもしれません。
無念の自害
しかし、数に勝る清軍の前に太平天国軍の勢いは衰えていきます。
夫である羅大綱も戦死し、1853年に清軍が蘇三娘の守る鎮江を包囲すると、敗北を悟った蘇三娘は辱めを受けないよう自害してしまいました。
敵の大将である曾国藩は、蘇三娘の死にざまを聞いて豪傑であったと絶賛しています。
蘇三娘は、死の直前に白紙に自らの血でこう書いていました。
「男女平等亅
この蘇三娘の伝説は、中国では有名で近年まで碑が建てられたりしたようです。
まとめ
この3人の女性に共通していたのは、剣術、刀術など武芸に優れていたこと。
そして、男と比べても遜色ないほど、常に前線で戦い部下の指示が厚かったことです。
清朝より前にはほとんど女性の反乱指導者がいなかったことを考えると、少しずつ「男女平等」の時代に入っていった証なのかなとも思ったりします。
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