明も中期までは、比較的平和で安定した時代が続いていました。
その流れをぶち壊したのが、今日紹介する「武宗 正徳帝」です。
あまりの治世のひどさに、よく明朝があと100年以上も続いたな~と感じるほどです。
遊び好きな少年
正徳帝は、本名を朱厚照といい、10代弘治帝の嫡男として生まれました。
頭がよく、翰林院というエリート養成所に在籍する官僚全員の名前を覚えていたり、記憶力も抜群で頭も良かったことや、兄弟がおらず一人っ子なのもあって、弘治帝から溺愛されました。
ただし、勉強嫌いで、剣術や弓術など武芸の練習ばかりして遊んでばかりいたため
「この子は頭がいいが遊び好きで歯止めがきかない時がある。将来が不安だ」
弘治帝からも将来を不安視されていました。
甘やかす宦官の存在
そんな朱厚照少年の世話役は、宮中の宦官でした。
紫禁城の運営を取り仕切るのは宦官の役目であって、皇族のプライベートな生活には大臣など官僚はまったく近づくことができませんでした。
当然、皇子たちの守役・教育係も全てお付きの宦官が行うことになります。
ただし、朱厚照少年のお付き宦官は最悪の育て方をします。
もともと勉強嫌いであった朱厚照少年に厳しくしつけるのではなく、遊びばかりさせました。
毎日のように、市中から大道芸人を連れてきては曲芸をさせたり、珍しい物や動物をたくさん連れて着たりと朱厚照少年を甘やかし続けたのです。
▽紫禁城内での大道芸の様子
その結果、朱厚照少年はわがままで面倒なことが嫌いな人間に成長しました。
正徳帝として即位
1505年、父の弘治帝が崩御し、朱厚照は正徳帝として即位しました。
幼いころから頭がよく、才気活発といわれた正徳帝が収める世の中は先代以上に良くなるだろう。そう思っていた官僚たちの夢は無残にも打ち砕かれることになります。
正徳帝は、即位した途端に、政務を放棄。
酒や女に溺れる享楽的な皇帝生活をスタートさせたのです。
豹房の建設
正徳帝は、紫禁城の敷地内に、「豹房」という離宮を建てました。
豹房とは、その名のとおりヒョウを飼う施設。
当時の王侯貴族の間では、動物を飼うことが一種のブームになっていました。
象や虎・鷹などを飼っていた場所は、「象房」「「虎房」「鷹房」などと呼ばれたのです。
正徳帝は、中でも豹(ヒョウ)がお気に入りだったようです。
狩猟好きな正徳帝は、ヒョウを馬の上にのせて連れていき、獲物をみつけると、馬上からヒョウを放ってハンティングさせるのを好みました。
しかし、この豹房には、ヒョウは一匹しかいませんでした。
正徳帝はここを自分の享楽施設としたのです。
何をしていたかというと・・・
- 宦官や侍従に命じて、美女や幼い美少年を強奪しては淫楽にふけった。
- チベット仏教にのめり込み、怪しげなお香を焚いて酒を飲みながら瞑想にふけった。
ヒョウにちなんで、美女にヒョウ柄の服を着せて楽しんだなどのエピソードもあるようです笑
美女や美少年たちを住む家として、200軒以上もの建物を豹房内に建てたり、チベット仏教の豪壮な寺院を建てたりと、莫大な国庫の出費がかかりました。
豹房の建物はまるで迷路のよう密接していて、妓楼や学校・チベット仏教の寺などが乱立していたといいます。
紫禁城にも後宮があり、ハーレムするだけならそこで十分です。
なぜ、わざわざ豹房に美女を集めたのか?
正徳帝は、豹房という自分だけの桃源郷を作ることで、口うるさい官僚や面倒な政務から逃げて自分だけの世界を作りたかったのでは?といわれています。
正徳帝は、生涯を通してこの豹房で生活をしました。
紫禁城内で市場を建設!
また、城内で市場を模したイベントも頻繁に行いました。
野菜売りはお前、肉売りはお前という感じで宦官や宮女に役割を命令して、自分は富豪の役をして楽しみました。
それだけならまだ良かったものの、後宮を売春宿にして、妖しいピンク色の煙を後宮内で焚き、宮女たちと淫楽にふけったようです。
八虎の横暴
遊び呆けた正徳帝に代わって政治を任されていたのはお気に入りの宦官たちでした。
特に「八虎」と呼ばれた有力宦官は、正徳帝の権力を盾に勝手な政治をするようになります。
特に劉謹という宦官は最悪でした。
彼の役職は、司礼監掌印太監。
大臣や官僚の皇帝への上奏文を受け取って、内容を確認してから皇帝に引き継いだり、皇帝の命令を聖旨として伝える権限をもつ超重要ポジションでした。
劉謹は、自分に都合がいいように上奏文を書き換えたり、気に食わない官僚がいれば皇帝に「~は謀反を企んでいます」とか「~は公金を着服して仕事をサボっています」など告げ口して降格させて政治を壟断していきました。
そのため、多くの官僚がご機嫌とりのためにワイロを送りました。
ワイロの資金源は税金です。
最終的には、下層の農民たちに重税がかかったため、反乱が頻発するようになりました。
正徳帝はそのことを知っていたのか不明ですが、劉謹ら「八虎」を野放しにしていました。
正徳帝の前治世は、そのまま宦官の治世だったのです。
劉謹の謀反計画と凌遅の刑
そんな劉謹も、あっけなく最後を迎えます。
1510年、彼は同じ八虎の張永という宦官の「劉謹は帝位簒奪しようとしています」という密告によって捕縛されます。
この当時、謀反は大逆罪とみなされ、凌遅という凄惨な処刑をされる決まりでした。
劉謹も、この凌遅の刑で、生きたまま肉を削がれるという残虐な殺され方をしています。
劉謹の謀反の報告を聞いた正徳帝は、ちょうど酒を飲んで酩酊状態でした。
「そんなにあいつが帝位を望むなら、あげてやってもいいぞ」
など、本気かウソかわからない冗談をつぶやいたようです。
紫禁城の大火をみて、大喜び
1514年、地方の王族である寧王の朱宸壕※が新年の祝いとして紫禁城内で爆竹を放ちました。
※のちに寧王の乱を起こす人物。
あまりにたくさんの爆竹だったこともあり、火花が紫禁城宮殿にも飛び火する事態になりました。ちょうど冬で空気が乾燥していたこともあって、火の勢いはすさまじく、乾清宮など主要な建物が焼けてしまいました。
宮中の者は、慌てるばかりで何もできません。
豹房に帰る途中だった正徳帝はこうつぶやいたと言われています。
「紫禁城が燃えているぞ!本当にきれいな花火だな!」
お忍びで遼東での美女漁り
劉謹という大物宦官がいなくなったことで、「八虎」ら宦官の勢いも少しだけ落ちました。
その次に政治を壟断したのは、江彬という武官でした。
武芸に優れ、阿諛追従に長けていた江彬は、正徳帝のお気に入りとなります。
この江彬も相当な曲者でした。
江彬は、豹房に入れる美女たちを付近の民家からかき集めるだけでなく、正徳帝に各地へ旅行に行くように進めました。
「遼東は美女の名産地です。陛下のお目がねにかなう女性も選びたい放題です。皇帝の地位に縛られて、ずっとこの宮殿にいる必要などないのですよ」
その意見を聞いた正徳帝は、群臣の反対意見も聞かずに、遼東に出発。
名付けて「遼東美女漁りツアー」
堂々と皇帝として出かけたら、色々面倒です。
それに民間の空気を自由に楽しめません。
そのため正徳帝は、平民の恰好をしてお忍びで出かけることにしました。
目的は、各地の美味しい物を食べたり、観光などもありましたが、一番の目的は美女の物色。
行く先々で、江彬の用意した美女を抱いてはポイ捨てする始末でした。
江彬がこの美女たちをどう用意したのか。
実は、民家に押し入って少女だろうが人妻だろうが関係なく無理やり連れてきたものでした。
このせいで、民衆は家の女を連れて枯れるのを恐れて離散する者が絶たなかったといいます。
この美女漁り旅行に満足した正徳帝は、ますます江彬を重用。
江彬も、劉謹と同じく多額のワイロを要求したため、政治は乱れ、負担のツケを払うハメになった農民はますます苦しむことになってしまいました。
この正徳帝と江彬の珍道中?は民間伝承が良く残っているようです。
実は、武勇に秀でていた?
武芸が好きな正徳帝は、いつも自分が将軍として活躍することを妄想していました。
1517年。北方の蒙古軍が明の国境付近を侵略していることを知った正徳帝は、ここぞとばかりに親征を計画しました。
もちろん大臣たちは猛反対。
「たかが一地方の小さな争いに陛下の御身を危険にさらすわけには行きません!」
しかし、自ら手柄をたてたいと夢想していた正徳帝は言うことをききません。
「朕は鎮国公総督軍務威武大将軍総兵官の朱寿であるぞ!」
やたら誇大な肩書きを自称した正徳帝は、5万もの大軍で進軍を強行します。
※ちなみに、正徳帝の本名は朱厚照です。将軍を名乗るときに自らを朱寿と呼んでいました。
そして、意気揚々と出発した正徳帝率いる5万の大軍は、国境付近で蒙古軍と対峙。
戦いは、敵味方とも死傷者は100人以下という小さな規模でしたが、正徳帝の乗っていた輿が壊れるほど激しい戦いだったともいわれています。
戦いのあと、正徳帝は近習に「俺は敵兵を1人斬り殺したぞ!」と自慢しています。
※ただ、正徳帝自らが戦うほどヤバい戦況なら、近衛兵も含めてかなりの死者がいないと変なので、自分が功績を立てたとアピールしたい正徳帝のウソのようです。
蒙古による小規模な侵犯はよくあることで、親征するレベルではありません。
正徳帝は、小規模な戦いなのに遠征先から、「鎧や弓をたくさんもってくるように!それを土塁や壁を作るから大量の銀も必要であるぞ!」と余計な注文もしています。
大軍を擁したわりに戦果の少なかったこの戦いで明の財政はさらに悪化しました。
寧王の乱
1519年には寧王の朱宸壕※が、江西で反乱を起こしました(寧王の乱)
※紫禁城で火事を起こした元凶です。
ことの発端は、宦官による厳しい税金の取り立てが王族の領土にまで及んだためでした。
寧王は、宦官や江彬などの奸臣を除くと称して反乱を起こしたのです。
この反乱は、陽明学で有名な、王陽明(守仁)が素早く反乱軍の本拠である南昌を攻め落としたため、簡単に鎮圧されています。
▽王陽明の画像
しかし、正徳帝は反乱鎮圧の報告をスルー。
「朕は鎮国公総督軍務威武大将軍総兵官の朱寿であるぞ!」
またもや、自らを将軍と自称して、すでに終わった反乱鎮圧を目的として遠征計画をたてます。
当然、官僚たちは猛反対。
「すでに反乱は鎮圧されています。なのに大軍で親征するなどありえないことです!」
しかし、我がままで自制できない正徳帝は、そんな官僚の反対意見に激怒。
なんと100人以上に廷杖をしてまで、南巡をしたのでした。
▽「廷杖」については、この記事で紹介しています。
こうなると、死ぬことを恐れた官僚たちは何も言えません。
大軍を率いた正徳帝は、捕虜の寧王をいったん釈放してから、また捕まえるて自分の功績とするという茶番を行われました。
二回捕らえられた寧王は、北京まで連行されて処刑されています。
こんな茶番に付き合わされ、処刑された寧王もなんだか哀れですよね・・・。
川で溺れて死亡
寧王捕縛の茶番をした正徳帝は、そのまま北京に帰らず、観光を楽しみました。
というより、こちらがメインの目的だったようです。
南京で太祖の廟にお墓参りした後、相変わらず美女漁りをしたり、登山や川遊びをしたようです。
しかし、この川遊びの最中、漁師のまねをして小舟に乗って魚を獲ろうとしたところ誤って川に落ちて溺れてしまいました。
北京暮らしが長くて泳げない正徳帝は、必死になってもがき助け出されるも、肺に水が入って肺炎になってしまいました。
その後、紫禁城に戻った正徳帝は、血を吐いたりと急激に体調が悪化。
体調が回復しないまま、1521年に亡くなりました。
正徳帝は、最後にこんな遺言を残しています。
「朕はもうダメだ。今後の天下の事は大臣たちに任せる。今までの不手際はすべて朕の誤りであった。今後のことは宦官たちの知る由ではない」
我がまま放題に生きた正徳帝も、自分の過ちを認める素直さはあったのです。
まとめ
正徳帝の放蕩生活によって明朝の財政は急激に悪化。
彼には息子がいなかったため、叔父の息子(従兄弟)である朱厚熜が嘉靖帝として即することになりました。
正徳帝の評価として、快楽に逃げた暗君と、武勇に優れた蒙古を撃退した名君(廟号が武宗であることからもわかる)という極端な二つの評価があります。
筆者は、正徳帝は武勇に優れていたのではなく、気分屋で世間知らずな、単にヒーローになりたかっただけの悪ガキのような印象をもちます。
皆さんはどう思いますか?
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