石勒ってどんな人? 奴隷の身分から皇帝にまで成りあがった唯一の人物

五胡十六国

皆さん、五胡十六国時代とはどんな時代だったと思いますか。

なんだ国が多すぎてゴチャゴチャしてるイメージがありませんか?

国を建てては、すぐ滅び、また国を建てて・・・の繰り返し。

じゃあ、この原因を作ったのは誰か?

それは石勒という一人の男でした。

彼こそ、晋(西晋)を滅ぼし、五胡十六国時代を造った人物だったのです。

石勒の生い立ち

石勒は、もともと山西省に住む匈奴系の羯族という異民族の部落出身でした。

父親も祖父も、部落を率いる頭領でした。

その後を継いだ石勒も優秀な頭領として部族を統率し、皆から慕われていました。

このまま何もなければ、石勒は単に周辺部族の頭目として生涯を終わらせていたでしょう。

しかし、当時の統一王朝である晋による重税の取り立てや、飢饉などによって生活ができなくなり、石勒は部族を率いて土地を離れなければいけなくなりました。

部族とはいっても、しょせんは勢力の小さい異民族集団です。

土地の豪族たちは彼らを捕まえて、漢族へ奴隷として売りさばいてしまおうと考えていたので、石勒たちは居住する土地をもたずにさまよい続けるハメになりました。

それに食べ物もなくなったため、飢えと疲労に苦しみことになります。

そんな時、たまたま石勒は昔からの知り合いである郭敬という者に道中で出会います。

今のひどい暮らしぶりを石勒が涙ながらに訴えると、郭敬は同情して、手持ちの衣服や金銭、食べ物を石勒にあげました。

石勒は泣いて感謝しました。

この郭敬との出会いが石勒の運命を大きく変えることになったのです。

奴隷として売られる

当時の権力者であった王族の司馬騰は、異民族を奴隷として売るために一斉捕縛を命令します。

逃げ場がなくなった石勒一行も、とうとう捕まってしまい、バラバラにされ奴隷として売られることになります。

石勒自身も、山東省に奴隷として連れてかれました。

その時の道中も監視役の役人にイジメられては、馬鹿にされるという辛い境遇だったようです。

しかし、監視役の一人が、前述の郭敬の親戚であった郭陽という者でした。

郭陽はなにかと石勒をかばってくれたので、飢えに苦しみながらも石勒はなんとか山東省に到着することができました。

山東省についた石勒は、師懽という地主の奴隷となって、農業をすることになります。

ただ、この師懽は石勒の見た目や雰囲気から尋常じゃないオーラを見抜き、奴隷の身分から自由人へと解放してくれました。

また、農場の隣の馬牧場の主である汲桑と仲良くなって、馬をもらったり色々世話をうけるようになります。

自由の身となった石勒は、傭兵稼業をしたり、盗賊として周囲を荒らしまわったりと、だんだん自分のテリトリーを広げ、配下も従えるようになっていきます。

このときに付き従った18人の配下が、後年には石勒十八騎といわれて石勒の覇業を支えることになりました。

晋の分裂と衰退

さて、このころの晋では、ドロドロの権力争いが起きていました。

いわゆる「八王の乱」というやつです。

▽太線が「八王」

時の皇帝である恵帝が暗愚だったため、八王と呼ばれた有力王族たちが代わりに政権を牛耳る目的で熾烈な権力争いをしていたのです。

この内乱によって、八王のほとんどが死んでしまい、晋は一気に弱体化してしまいました。

こんな状態では、とても異民族に警戒する余裕なんてありません。

ボロボロの晋をみて、今まで従っていた周辺の異民族が次々に反乱を起こし始めたのです。

これが「永嘉の乱」です。

石勒も、汲桑と一肌上げようと挙兵します。

まずは、晋の王族同士の争いに介入し、王族の先鋒として戦功をあげることで実績を重ねました。

仕えていた王族が死ぬと、どさくさに紛れて反乱を起こしました。

胆がすわっていて、人望もあつかった石勒が率いた軍は士気も高く、晋軍相手に連戦連勝。

なんと307年には大都市の鄴を攻略するという大戦果をあげます。

ちなみに、この時に石勒は鄴の住民1万人以上を殺し、宮殿を焼き払ったり略奪を繰り返すという行いをしています。

苛烈な性格で、冷酷であったといわれる石勒ですが、敵対した相手の住民にもまったく容赦がありませんでした。

まさか、野蛮な異民族の一人にすぎない石勒などに、大都市の鄴が占領されるとは思ってもいなかった晋はびっくり仰天。

「八王」の生き残りである司馬越が、大軍を率いて石勒征伐に向かいました。

しょせんは急造の反乱軍にすぎなかって石勒軍は大苦戦し、一緒に挙兵した汲桑が戦死してしまうなど大敗を喫します。

漢の将軍として

しかし、石勒はあきらめませんでした。

しぶとく生き残って、同じ異民族出身の劉淵が建国した漢に従うことになります。

劉淵の配下となった石勒は、メキメキと頭角を現していきます。

河北や河南の、晋朝の支配する都市を次々と攻略していき、漢での立場を盤石にしていきました。

石勒が従った漢の基本方針は完全実力主義。

前線の将軍に兵権を与えて将軍同士の戦功を争わせることで領土を拡大していく方針でした。

他の将軍が占領した土地の住民を大量に殺したり、略奪ばかりするような残酷な行為をするなかで、石勒は、住民をむやみに殺さずに、税の負担を減らしたり治安維持に努めるなど民衆の支持を得ようしました。

相次ぐ戦乱で疲れ切っていた住民から支持を得て、石勒の部隊は漢のなかでも急速に勢力を拡大していきました。

もちろん晋朝もだまっていませんでした。

310年に、前述の司馬越がまたもや大軍を率いて石勒討伐に乗り出したのです。

しかし、この司馬越は晋の朝廷を牛耳っていたため、皇帝にも恨まれるという有り様でした。

内紛のゴタゴタで思うように討伐ができないまま、司馬越は病死してしまいます。

戦上手だった司馬越死亡の報をきいた石勒は、狂喜乱舞。

今がチャンスとばかりに晋軍に急襲をしかけます。

相次ぐ戦いによって、ヤル気をなくしていた晋軍はあっというまに大敗し、10万人以上の戦死者と出すハメになったのです。

そして、石勒は48人もの王族や晋の重要官僚を捕虜にすることに成功しました。

この時に、石勒は晋の捕虜たちにこう言いました。

「お前たちは、なぜ晋朝がここまで落ちぶれたと思う?

それは、お前たちが重責を担っているにもかかわらず、職務を全うしなかったからだ!」

そして、なんとこれらの捕虜としていた王族と官僚たちを全員処刑してしまったのです。

また、仇敵であった司馬越の遺体をも辱める行いをします。

「この男こそ、天下をかき乱した元凶である!死体を焼いて、天に報告しよう」

石勒はそういって、司馬越の遺体を焼き払ってしまいました。

おびただしい死者を出したうえに、政治の中枢を担う者のほとんどが殺された晋朝に、もはや抵抗する力は残っていませんでした。

その年のうちに、石勒を含めた漢の大軍によって首都の洛陽が陥落し、晋は滅亡したのです。

独自政権を築く

晋が滅亡したのちも、石勒は晋軍に忠義を尽くす残党を各地で撃破しつつ、勢力を拡大していきました。

漢の他将軍といがみあいが起きたため、その将軍を独断で暗殺することもありましたが、漢の皇帝でさえ処罰できないほど、このときには石勒も強大な力をもつようになったのです。

そして、とうとう河北省にある襄国という都市を本拠地として独自の政権を築きあげます。

石勒は、漢人官僚をたくさん雇い、官僚機構を整備して国の安定化を図ったために、あいつぐ戦乱で疲弊していた中原は回復し、安定に向かいはじめました。

そんな中、318年に漢の皇帝が靳準という将軍による反乱で殺されるという大事件が起こりました。

靳準は一時的に、漢の朝廷を支配します。

しかし、当時、宰相であった皇族の劉曜による討伐で、反乱は鎮圧されました。

そして、劉曜はあらためて漢の皇帝に即位しました。

石勒はというと、すでに劉曜の漢(のちに趙へ国名を変更)よりも広大な土地を支配していたので、漢には従わずに、別の趙という国を建てました。

まぎらわしいので、歴史上では、劉曜の趙を前趙・石勒の趙を後趙と分けています。

その後しばらくは、各地の小勢力を併呑するなどして支配を盤石にしていった石勒でしたが、

328年には、大軍を率いて劉曜の軍勢を打ち破り、前趙を滅ぼすことに成功しました。

後趙の皇帝に即位

こうして、中国の北半分を支配することになった石勒は、330年にとうとう皇帝に即位しました。

奴隷にまで身分を落とした異民族の男が、とうとう皇帝にまで成りあがったのです。

しかし、皇帝となった石勒にも気がかりなことがありました。

石勒の甥であった石虎は、将軍として数々の戦で戦功をあげていましたが、残虐で横暴な性格のために石勒の家臣からは嫌われていました。

家臣たちは、皇太子の石弘が優しくおとなしい性格であったため、将来、石虎が従わずに反逆するのではないかと危機感をもっていたのです。

そのため、家臣たちは、石虎を非難して遠ざけるように石勒に進言しましたが、石虎の能力の高さを知る石勒は気にしつつも耳を貸しませんでした。

そうこうしているうちに石勒は病に倒れます。

そして、333年に病が悪化して、いよいよという時に、このような遺言を残しました。

「息子の石弘はまだ幼く、私の志を継ぐにはまだ早い。そのため石虎ら一同はよく息子を補佐してやってくれ。特に、石虎。お前は間違えても反乱など起こさないようにな」

そして、同年中に石勒は60歳という年齢でこの世を去りました。

苛烈で短気な性格

石勒の人物や性格を表すエピソードはたくさんあります。

何事にも動じないほど胆が据わっていたこと。
武芸に秀で、特に騎射にすぐれていたこと。
石勒は、まずしい幼少期を過ごしたためか、文字の読み書きはできなかったが、家臣に書物を詠ませて聞くほど勉強熱心だったこと。

まあ、ここらへんは実力者のエピソードとしては良くある話です。

しかし、石勒は同時にとんでもなく短気でした。

例えば・・・

義兄(姉の夫)が博打をしていたとき、冗談で石勒をからかったところ、真に受けた石勒は雇っていた力士に怒鳴りつけて、義兄の首を折るように命じて殺してしまった。
王宮の正門を築かせたが、設計ミスで崩壊してしまったことに激怒して、責任者の晁賛を死刑にした→その後、後悔。
宮殿の天井の寸法が誤っていたことに激怒して、責任者の劉奥を死刑にした→その後、後悔。

これだけみると、かなり危ない人物です。

しかし、戦乱で荒れ果てていた中原地域を回復して、民衆の休養と国力の回復を図ったので民衆からは人気がありました。

また、異民族出身ながら漢人の官僚もたくさん登用したので有望な人材が集まっていました。

晋の滅亡から五胡十六国時代にかかる不安定な時代では、石勒のような冷酷でも果断であった優秀な独裁者は元代に伝わるエピソード以上に人気があったのかもしれません。

その後

奴隷から皇帝にまでなりあがった石勒。

彼の築いた後趙は中国の北半分を支配する強大な帝国となりました。

しかし石勒の死後、せっかく建てた彼の国は荒れに荒れることになります。

まず石虎が石勒の遺言を全く守りませんでした。

そして、幼い皇帝である石弘にも悲運の結末がまちうけていたのです。

次は、中国史上まれにみるヒステリックで残虐な人物であった石虎について紹介します。

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石虎ってどんな人? 暴力と恐怖で支配した狂気の皇帝

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