中国暴君列伝①民を暴力と恐怖で支配した皇帝~石虎~

五胡十六国

西晋が滅んだ後のゴタゴタを抜け出し、やっと華北統一をめざせる王朝「後趙」が誕生します。
後趙の初代皇帝である石勒は、厳しい性格ながらも国の安定を最優先とする名君でした。
しかし、次の皇帝によって後趙はボロボロになります。

その皇帝とは石虎。
石勒の甥にあたる人物であり、「後趙」の第3代皇帝です。

この石虎。
正直、あまりにもひどいエピソードの数々で書いていてイヤになるくらいの人物です。

その性格は暴虐非道。
石勒が心血を注いで建てた後趙を暴力と恐怖で支配し、滅亡する要因をつくりました。

▽石勒についてはこの記事で紹介しています。
石勒ってどんな人? 奴隷の身分から皇帝にまで成りあがった唯一の人物

中国史上、もっとも残虐な君主だっとともいわれる石虎。
彼の生涯を調べてみました。

悲惨な幼少時代

石虎は、異民族の羯族の生まれです。

幼いうちに父親を亡くし石勒の父に養子として引き取られました。
そのため、石勒と石虎は若いときから家族同然として育てられています。

しかし、晋末の大規模な重税や飢饉のために、羯族の生活環境も悪化。
もはや土地にいても餓死するだけと判断した石勒の主導で集団移動を始めますが、まだ幼い石虎は石勒と離れ離れになってしまいました。

石虎は、石勒の母親と一緒にさまよっていたところを、晋の劉琨という武将に捕まります。
劉琨は、石勒(劉淵が建てた前漢という国の将軍として西晋と戦っていた)の懐柔を画策。

「お前の甥の石虎と母親は預かっている。晋に寝返ってはどうだ?」
石勒は拒否しますが、忠義の厚さに感動した劉琨によって石虎と石勒の母は返されています。

残忍さの芽生え

石虎の残忍さは、小さい頃から芽生えていました。

彼は武芸に秀ででおり、特に騎射が得意でしたが、気の向くままに弾弓(弾丸を打つ弓)で部下や下僕をめった打ちにしては楽しむ悪癖をもっていました。

石勒も、この石虎の残忍な行為をみて悩みます。
「こいつはかなり残虐で危ない奴だ。早めに殺したほうが良いだろう。ただし、こいつを兵士に殺させては評判が悪いから自分から死んでもらおうか」

しかし、長年石虎と一緒に過ごしていた石勒の母がいさめました。
「あの子はあなたの肉親ですよ。暴れん坊でも成長すれば立派な武将となりましょう」
結果として石虎を殺すまではしませんでした。

もし、石勒がこの段階で石虎を誅殺していれば、のちの数々の残虐な事件は起きずに後趙もすぐに滅ぶことはなかったかもしれません。

石勒に忠義を尽くす

石虎は成長すると、弾弓で家臣を打つ悪癖はなくなりました。
生来の武芸の高さや常に前線で戦う勇猛さもあって、軍を率いては戦功を次々をたてていきます。

彼の軍隊は、規律が厳然としており、非常に士気が高いことで有名でした。

劉曜死後の前趙を滅ぼした決戦でも、石虎は抜群の戦功を立てています。
石勒が領土を拡大して後趙を建国できた背景には、石虎の果たした役割も大きかったのです。

しかし、石虎の残忍さは大人になってさらに増していました。

普通は城を攻め落とすと、治安安定のために住民の慰撫するもの。
しかし、石虎は城を攻め落とすと、意味もなく城内の民を若男女区別なく斬殺したり、生き埋めにして人殺しを楽しんでいました。
また兵士の士気を上げるために、攻略後の略奪強姦も放任していたといわれています。

石勒の重臣たちは、石虎のあまりの残虐非道ぶりに、将来石虎が反逆するのではないかと恐れてたびたび石勒に彼を排除するよう進言をしましたが、石勒は、石虎を諫めることはあっても処罰することはありませんでした。

実は石勒も、石虎の残虐さよりも将軍としての有能さを評価していたため、最後まで石虎を処罰することはなかったのです。

帝位簒奪の野心

石勒がもともと仕えていた前趙(前漢から国号を変更)を滅ぼして、華北(中国の北半分)を統一すると、石虎は他の家臣とともに石勒に皇帝になるように盛んに進言をします。

はじめは渋っていた石勒も、333年についに後趙の皇帝として即位。

抜群の戦功をたてていた石虎は、自分こそが後継者だと思っていました。
しかし、石勒が指名した後継者は息子の石弘。
ショックを受けた石虎は深く石弘を恨むようになります。

石虎は自分の息子たちに堂々とこう言っていたようです。

「俺は陛下(石勒)に誠心誠意仕え、20年近く数々の戦場をくぐりぬけ多くの戦果を挙げた。
趙の勢力拡大に一番貢献したのは俺だ。
 それなのに後継者はあの青二才(石弘)になってしまった!
 陛下が生きているうちは我慢しよう。崩御を待つのだ。
あんな青二才などは取るに足らん」

一番の功労者という自負が、石虎を増長させてしまったのです。

石勒崩御~帝位簒奪~

石勒が死んで石弘が皇帝に即位すると、石虎はとうとう野心をむき出しにします。

まず、石虎を危険視して排除しようとしていた石勒の重臣たちを捕らえて即刻処刑。
そして、宮廷人にはすべて自分の息のかかった者を配置して、皇帝を監視するようになります。

気の優しい石弘は石虎を恐れ、彼に皇帝の地位を禅譲しようとしますが、ムリやり簒奪したと思われたくない石虎は禅譲を拒否しました。

しかし、あまりにしつこく石弘がせまるので
「私が皇帝の位に就くのは、天下で大乱が起きたときです。今は、禅譲を受けれません!」

と半ば恫喝する形で石弘を無理やり皇帝の地位に留まらせました。

石勒の時代からの古参の将軍たちはもちろんこれに反発。
石勒の妻であった劉太后も将軍たちと石虎排除を計画します。

そして各地で石虎排除を目的とした反乱が勃発しますが、戦上手であった石虎はすべての戦いに勝利し敵対勢力を抑え込みました。

劉太后でさえも、反逆を図ったとして幽閉され、のちに暗殺されています。

もはや、国内には石虎に歯向かう者がいなくなったのです。

皇帝は常に監視され、針のむしろにいる状態。
いつ廃位させられてもおかしくはありませんでした。

この極限状態に耐えられなくなった皇帝は、またもや石虎に禅譲をせまります。
石虎は、しつこく禅譲しようとする皇帝に激怒し、彼を廃位したうえで幽閉してしまいました。
※のちに、廃位された石弘は殺されてしまいました。

こうして、石虎は後趙の第3代皇帝として即位します。

遠征と戦死者の増加→強制移住

統治者となった石虎は周辺諸国との戦いに明け暮れることになります。

当時、後趙の周辺は前燕(華北の東側を支配)や前涼(華北の西端を支配)、東晋(晋の残存政権で江南を支配)などの強国ぞろいでした。

▽石虎在世中の周辺地図

石虎はこの後、死ぬまでの15年間ずっと戦いを止めませんでした。
その結果、石勒の時よりもさらに領土を拡大させることに成功。

しかし、その代償はあまりに大きい物でした。
戦続きで兵役が途切れることはなく兵士は疲れ切っていました。
戦死者も増え、成年に達した若者はすぐに徴兵されるも、絶え間ない戦で国内人口が減少。

また、戦続きで兵士の食う飯がねえ!ということで、付近の民家から食料強奪が始まります。
救済策として、地域の山や川で好きに肉や魚・果物を獲って食べていいよと許可がでますが、これも特権階級が獲った獲物を分捕ったので、いよいよ餓死者が続出。

絶望した民衆は離散して国外に逃げ始めました。

そのため、石虎は敵国に侵攻しては各地の住民を強制移住させることを繰り返すようになります。

戦で領土は拡大しても、人口は減る一方だったのです。

民衆を奴隷のようにこき使う

石虎は即位後しばらくすると、気持ちが緩んだのかすさまじい贅沢をするようになります。

主だった命令だけでもこれだけあります。

  • 長安に大宮殿を造営するために、周辺住民16万人を徴発して働かせる。
  • 洛陽の宮殿修復のために、周辺住民26万人を強制摘徴発して働かせる。
    ※洛陽は首都ではなく(鄴が首都)、単に別荘として利用するのため。
  • 兵糧確保のために、2万頭以上の牛を百姓から強制徴発する。
  • 大規模な宮殿に入れるために、13歳~20歳以下の3万人の少女を民間から強奪
  • 各地の官吏が自らの昇進のために、結婚してるか否か関係なく漢族の美女9,000人を強奪したため、3,000人以上もの夫が殺されたり絶望して自殺。
  • 行幸したときに、各地の民家から女や食べ物、衣服、牛馬など財産を全て没収してしまったので、その地域の漢族の住民のうち10人に7人は破産して一家離散。
  • あまりの非道ぶりに、家臣が石虎に諫めても逆ギレして殺される家臣50以上→正論をいうと殺されるので、何も言えなくなる。

統治下の民衆を奴隷のようにこき使い、搾取しつづけることは皇帝の当然の権利だと日ごろから言っていたようです。

民衆からすれば悪魔のような君主でした。

人間の壁を作り、猛獣狩りをする

石虎は無類の狩猟好きでした。
しかし、特筆すべきは、狩りの際に虎や狼などの獰猛な獣40頭以上を常に連れていったこと。

部下に命じて人間の壁を作らせたうえで、檻から獣を出し、お気に入りの精鋭100騎あまりが逃げ回る獣を狩猟するのを観て楽しみました。

追い詰められた獣は壁役の人を食い殺して外に逃げようとします。
誰だって食われたくはありませんが、もし獣の脱走を許せば、徒歩で1日中歩かせたり、鞭打ち100回の刑が待っています。
獣に食われるか・厳しい刑罰で死ぬか。
あまりにも惨い処置に、1万人以上の人間が亡くなったと言われています。

息子たちへの度を過ぎた残酷な処罰

石勒には、実子養子問わずたくさんの息子たちがいました。

石邃

皇太子であった石邃は、石虎に似て武勇に優れて勇敢であったため、石虎から愛されていました。

しかし、石邃は成長すると傲慢になり凶暴性を増していきました。
家臣の妻妾を無理やり奪ったり、その首を切り落として皿に盛って見世物とする。
尼を強姦して殺して、その肉を牛肉と煮込んで食べる。

その噂を聞いた石虎は、石邃を呼び出して謝罪させようとするも、石邃は謝りませんでした。

石虎は、その態度に激怒。
石邃とその家族26人以外にお付きの家臣300人あまりを全員殺してしまいました。

石宣

石邃を処刑したあと、石虎は後継者選びに悩むことになります。

石宣と石韜という二人の戦上手な息子がいましたが、悩んだ石虎は年長の石宣を皇太子に指名。
しかし、石韜も石虎に可愛がられており、増長して石宣に反発していました。

「いつか皇太子を廃されてしまうかもしれない。石韜を殺してしまおう」
石宣の企みにより、石韜は殺害されます。

報告を受けた石虎は卒倒するほど悲しみ、凶器である刀にこびりついていた石韜の血を舐めて宮殿中に響き渡るほどの大声で泣き叫びました。
家臣たちはその狂気に恐れおののいたといわれています。

怒り狂った石虎は、犯人を捜すために宮廷の人々に激しい拷問を加えて、とうとう石宣が犯人であることを突き止めました。

息子同士の殺し合いを石虎は許せませんでした。
石宣の髪と舌を抜き、手足を切り落として腸をつぶし、目を抉り出してうえで、石宣に火をつけて焼き殺してしまいました。

石宣の親衛隊の隊長以下300人と宦官50人も車裂きという惨い刑で殺されてしまいました。

▽車裂きの刑

石虎はその様子を、寵愛する妾など数千人とともに平然と見物していたといわれています。

石虎にも弱さがありました。
彼は石宣の6歳になる幼い息子を溺愛していましたが、さすがに幼い孫を哀れに感じて殺すのをためらっていました。
しかし、重臣が「反逆者の家族は全員処刑の対象となっています」と言って、無理やり石虎の手元から引きはがして殺してしまったのです。

孫が泣き叫んで殺される様を石虎も黙ってみるしかなかった石虎ですが、さすがにこの事件はショックがでかかったのか、次第に寝込むようになります。

暴政の終わり

有能な息子たちをつぎつぎと失い、歳もとっていた石虎はショックのあまりか病気がちになり、判断力も低下していきました。

石虎には他にもたくさんの子供がいましたが、奸臣の言葉にまどわされて、まだ幼い息子の石世を皇太子に指名。
しかし、他の子どもたちは当然その決定に不満をもちました。

後継者が安定しないなか、356年に石虎は病死します。
彼は遺言を残しました。
「我が息子の石世はまだ幼い。重臣や息子たちはよく支えてやってくれ」

しかし、もともと石世が後継者であることに納得していなかった他の息子たちは、遺言を守るつもりなど全くありません。
石勒の死後すぐに息子の一人である石遵がクーデターを起こして、即位後わずか33日で石世は殺されてしまいました。

若い皇帝を補佐すべき皇族が反逆して皇帝になるという惨劇は、石虎が石弘を殺した流れと全く同じでした。

そして、石虎が死んでわずか2年後。
長年の戦争で国力を疲弊させたうえに皇族同士の争いを繰り返した結果、後趙は滅亡します。

石勒が建国から、たった26年後のことでした。

まとめ

武力で権力の座をもぎとり領土を拡大した石虎。

石虎のような武断派のほうが五胡十六国時代では評価されたんでしょう。
ただ、民衆にとっては自分たちを苦しめる暴君でしかありませんでした。

かなりインパクトのある暴君ですが、日本では石虎の知名度はそれほど高くありません。

▽中国暴君シリーズはまだまだ続きます。
中国暴君列伝②~「豚王」とよばれた南朝宋の明帝~

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