宋軍はなぜメチャ弱かった?

五代十国・宋

中国史上最弱ともいわれる宋(北宋・南宋)の軍隊。

なかでも北宋の弱さは有名で、ほとんどの戦で負けています。

西夏や遼などの周辺諸国の侵略に脅かされてきましたが、あまりにも弱いので、莫大な金を支払うことを条件にして講和を結び平和を金で買う有り様でした。

でも大国だったのに、なんで宋は弱かったんでしょうか?
教科書レベルでは宋は文治主義だから弱かった的な説明をしてますよね。
でも、具体的に何が原因だったのかは説明していません。

今日は、このあたりの原因を調べてみました。

趙匡胤が軍の反乱を恐れてたから

宋の建国者である趙匡胤は、もともと五代十国時代の後周の将軍でした。

趙匡胤は、唐以降に安定した王朝が存在しない原因は、節度使にあると考えていました。
地方の節度使が、皇帝に従わずに勢力を蓄え、あげくの果てに反乱を起こして帝位を簒奪する。
そんな負の連鎖を止めるには、節度使制度そのものを廃止するしかないと思ったのです。

そのため趙匡胤は宋を建国後すぐに節度使制度を廃止し、すべて中央の禁軍が軍事を担うような制度に変更しました。
禁軍とは皇帝近衛の軍隊のことですが、宋代では、規模を大幅に増やして国軍としたのです。

また、趙匡胤は以下のような方針を打ち出しました。

  • 軍隊に将軍が常にいれば、信頼関係が生まれ、軍を私物化するかもしれない。
    →禁軍には将軍を置かずに戦時だけ朝廷が派遣した文人官僚が指揮官となること。
  • 軍隊を一地方に駐屯しつづければ在地勢力となり皇帝に歯向かうかもしれない。
    →禁軍を一地域に常駐させずに、数年おきに各地域に転々と赴任をさせること。

いずれも地方で軍隊の反乱が起きないようにするための方針でした。
結果として、宋代に限っては軍部の反乱が起きることはありませんでした。

しかし、同時に軍隊の士気が著しく低くなる原因ともなったのです。

上司である幹部が常日頃からいなければ、上との信頼関係は生まれません。
朝廷から官僚が指揮官として派遣されましたが、科挙に合格した官僚の多くは、戦などは野蛮な人間のすることだと見下していました。
ましてや戦術や兵法もド素人。

そんな官僚指揮官が、兵士が意思疎通できるわけがありませんでした。

住む場所も転々としていては、地理にも疎くなりますし、なにより住む場所への愛着がなくなり、必死で戦う意欲がなくなります。
また、転勤時は家族の同伴が禁止させられていたので、兵士のヤル気もがた落ちでした。

軍隊の質が異常に低かったから

上述のとおり、宋の主力は禁軍です。
その規模は八十万ほどであったもいわれており、数だけでいえば他国を圧倒していました。

しかし、この禁軍の中身はスカスカでした。
その原因は色々あったようです。

徴兵ではなく、募兵制だった。

宋は、歴代王朝と違って、兵士は募集して集めていました。
地方に軍隊を常駐させずに中央の禁軍を増やす必要もあったのですが、飢えた民衆を養うことで反乱につながることを防ぐ目的もあったのです。

「軍に入れば、とりあえず飯にはありつける」
飯を食えるから仕方なく軍に入っただけという兵士が大半でした。

また、どんどん規模も増やしていったため、兵士になる要件もぐっと下がりました。
とりあえず健康で戦える者なら誰でもOK。
そのため、浮浪者や犯罪者などのゴロツキたちが集まり、質も大きく低下する一方。

そんな者たちの集まりだったので、仕事よりも自分の命のほうが大事とばかり、戦では真っ先に逃げ出す者が続出したといいます。

給与も低く、家族とも会えない。

禁軍にかける予算は年々膨大になりましたが、一人あたりの給料は極端に少なかったようです。
また、数年おきに地方を転々とさえられるため、自分の家をもつことができませんでした。

転勤中は家族の同伴も禁止されていました。
わずかな給与で、家族ともろくに会えない。

こんな待遇でヤル気が起きるわけがありませんよね。

ほとんど訓練をしなかったから。

宋軍が弱かった原因として、これが一番大きいです。
戦に備えるために欠かせないこと。「訓練」がろくに行われなかったことです。

宋の禁軍には軍隊の幹部が常駐していませんでした。
そのため、彼らを鍛えるべき上司がいないことが多く、戦の訓練をする余裕もなかったようです

こんな素人同然の集団が、戦時に役に立てるでしょうか?

実際、北方の騎馬軍団と対峙しても、まともに立ち向かうこともできず逃げ出すばかりで戦いにならないことがほとんどだったようです。

まとめ

こうした多くのマイナス要素があった宋軍は、周辺各国に連戦連敗。

神宗の時期に、さすがにヤバいと感じたのか、王安石の改革で地方への常駐や幹部の配置など方針転換がされましたが、保守派の反対もあってうまく改革は進みませんでした。

そうこうしてるうちに、徽宗の時期に金軍の猛攻で首都開封は陥落。
あっけなく北宋は滅亡してしまいました。

▽徽宗についてはこちらの記事で説明しています。

中国暗君列伝④ 北宋を滅亡させた風流天子~徽宗~

その後、南宋当初に岳飛など一時的に軍が強かった奇跡の時代が起こりますが、全体的には南宋が滅亡するまで宋軍は弱いままでした。

軍に牛耳られるのも怖いですが、極端な文治主義も国を弱くする典型例みたいですね。

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