中国史上最高の英雄である岳飛。
北宋の首都開封の奪還まであと一歩というところで、宰相の秦檜による妨害で北伐はストップされ、岳飛自身も謀反の疑いで処刑されてしまいました。
今でも秦檜の邪魔がなければ、岳飛は北伐に成功したのでは?という意見が大きいです。
今日は、なぜ岳飛の軍は強かったのか、そして北伐が失敗した原因を調べてみました!
強さの理由
精強な岳家軍の存在
強かった一番の理由は、彼の軍隊(岳家軍)が精強だったことです。
実は宋の軍隊は中国史上でも有数の弱さで有名で、北宋時代から遼や西夏など周辺諸国に連連敗。金で平和を買うような有様でした。
なんでそんな弱いのか。その原因はさまざまですが、数ばかり多くて兵士の質が低いこと、訓練が十分にされていなかったことなどが大きな原因として挙げられます。
▽弱い理由はこの記事で書いています!
宋軍がメチャ弱いために、金軍にいいようにやられていたことを痛感していた岳飛は、地元など地縁のある場所から独自に兵士を募集しました。
要は自前の軍隊を作ったんですね。
そして、厳しい訓練を行って兵士の質を高め、軍功を挙げた兵士にはたっぷりと恩賞を与えることで軍隊の士気を高めました。
岳飛も、部下や兵士に気を配り家族のように接していたため、軍隊の信頼を得ていました。
▽中国ドラマ「精忠岳飛」より
兵士の質も高く、将と兵の信頼関係もあり統一感もある。
こうして岳飛は独自に精強な軍隊を作ることに成功したのです。
彼の軍隊は岳家軍と言われ、金軍との大小の戦で負けることはほとんどなかったといいます。
また、民衆への略奪や暴行などをしないよう綱紀粛正にも励んだため、彼の軍隊は民衆からも絶大な支持を得ていました。
「民家を奪うくらいなら凍死を選び、略奪するくらいなら餓死を選ぶ」
こんな言葉が生まれるくらい、岳家軍は軍紀が厳しいことで有名だったのです。
対金軍対策が万全だった
中国史上でも五指に入るほどだったと言われている金軍の強さ。
その強さの理由は、勇猛な騎馬軍団にありました。
▽中国ドラマ「精忠岳飛」より~金軍~
なかでも、鉄浮屠と呼ばれた重装騎馬集団の強さは別格でした。
鉄浮屠は、全身だけでなく馬にも鉄の鎧で覆い、露出を完全に防いでいました。
▽復元するとこういう鎧だったようです。
この鉄騎集団で突撃してきた際の破壊力は凄まじく、歩兵メインの従来の宋軍ではまったく歯が立ちませんでした。
岳飛は、そんな金軍(主に鉄浮屠)に対抗するために、より堅くて重量のある鉄のプレートで全身を覆った歩人甲と呼ばれた鎧を装着した重装歩兵集団を作りました。
この歩人甲。
1800枚ほどの小さい鉄板をひもと鉄釘でつなぎ合わせたラメラーアーマーなんですが、メチャクチャ堅く、騎馬突撃にも耐えられる防御力をもってました。
▽復元した歩人甲
対策はこうでした。
- 歩人甲集団を前線に配置し、鉄浮屠など騎馬軍団の突撃に耐える。
- 戟を使って唯一無防備な馬の足を斬撃する。
- 足を斬られて倒れた衝撃で落馬した敵兵を打ち取る。
この鎧は相当重かったようで、敗走する敵を追撃するのには不向きでしたが、金軍の猛攻に耐えることができた唯一の戦い方として非常に効果的だったと言われています。
理解のある上司にめぐまれる
岳飛は軍を率いて戦うことはできましたが、北伐を行う決定権はありませんでした。
では、誰が決定権を持っていたかというと、南宋の官僚たちです。
正確にいうと、南宋の初代皇帝である高宗が最終決定者でしたが、政治は宰相以下有力官僚に一任していたので、官僚たちが北伐OKと言わない限り、岳飛は北伐ができませんでした。
ただ、1134年~1140年の間に複数回の北伐を実行できたのは、当時の宰相など有力者が趙鼎や張浚、李綱など対金主戦派だったためでした。
▽南宋初期の名宰相 趙鼎
また、これらの有力官僚は、岳飛以外にも韓世忠・張俊・劉光世など有力な武将に軍閥を作らせて、上手く抗金戦をさせたことで、徐々に南宋は力を盛り返していくことができました。
北伐失敗の原因
秦檜の妨害
1138年に秦檜が宰相になると、金との和平派であった秦檜は、岳飛など主戦派の軍閥の存在が邪魔だと感じて排除の動きを見せていきます。
▽中国ドラマ「精忠岳飛」より~秦檜~
この秦檜。
中国では、岳飛を無実の罪に陥れた売国奴としてボロクソに叩かれています。
また、靖康の変で金の捕虜となったにもかかわらず、奇跡的に南宋に戻ることができた官僚であるため、実は金から和平工作のために岳飛を殺せと支持されていたのでは?と言われています。
また、文治国家である宋は、北宋の時代から金で平和を買っていました。
そのため、今回も武力じゃなくて金で解決できるならいいじゃないか!という論調が強かったことも、北伐にブレーキをかけていました。
「ムダに血を流して国力を消耗させている」
秦檜以外の官僚たちもそう思うことが多く、1142年に岳飛が秦檜によって謀反の疑いで投獄された時もあえて岳飛の弁護をする官僚たちはいませんでした。
高宗の焦り
高宗は、当初は岳飛の勇猛ぶりや北伐での戦果を評価していましたが、秦檜が宰相となると和平派に傾いていきました。
▽中国ドラマ「精忠岳飛」より~高宗~
そして、最期の北伐では岳飛に何度も朝廷に戻るように命令を出しており、秦檜による岳飛の謀反罪と処刑の建議にも疑問に思わずにGOサインを出しています。
実は、靖靖の変で徽宗と欽宗という二人の皇帝が金によって北方に連れ去られていましたが、岳飛は常々この欽宗を取り戻して、旧都の開封で復位させたいと豪語していました。
▽捕らわれの徽宗と欽宗
※徽宗は1135年に死亡。
ただ、高宗は皇帝不在だったので棚ぼたで皇帝になれたのであり、もし欽宗が戻れば皇帝でありつづけるのはおかしいという意見が必ずでてきます。
金から欽宗を返そうと提案があっても、高宗はやんわり断ってるくらいです。
「岳飛がこのまま勝ち続けてしまえば、兄の欽宗が戻ってきてしまうかもしれない」
▽中国ドラマ「精忠岳飛」より~高宗と秦檜~
そう思った高宗が、秦檜の提言通りに岳飛の北伐を停止させ、処刑にGOサインを出しても不思議ではありません。
また、岳飛の処刑後に、講和が成立して捕虜だった高宗の母が南宋に戻ることができています。
旧領土回復よりも、講和によって母の命を優先したと考えることもできます。
高宗にとって岳飛による必要以上の北伐は、邪魔でしかなかったのかもしれません。
まとめ
岳飛は優秀な武将でしたが、皇帝や官僚がの理解がなければ戦を起こすことができません。
その皇帝や官僚が北伐を支持していなかったのでどう考えても北伐は成功しなかったでしょう。
時代と仕える君主に恵まれなかった。
つくづく岳飛は不運な武将だなと思います。
コメント